雷 第四十三話
十兵衛の部屋での騒動は続いている。
男たちのうちの一人が、
「我々は水戸攘夷派である天狗党の残党でござる。左から順に、猪俣平蔵、筑波平馬、小田和之進、それがしが三浦平九郎、最後にこの宿の主の吉十郎でござる」
と、三浦平九郎と名乗った侍が紹介を終えた時、部屋の外から
「私を忘れてもらっては困る」
という声がした。声こそ、あの表情の乏しい女中であったが、身なりは明らかに男装の麗人であった。
「十和田志野と申す。天狗党には兄とともに参加を致しました」
「楠十兵衛と申す」
「先ほどの無礼を、平にご容赦願いたい。我らは水戸の諸生党という保守派、長州で言えば俗論派に当たる派閥によって追われている身でござる。この土浦は藩主采女正様が幸いにも攘夷に対して賛同されている方であり、蔭乍ら助けていただいている為、今はこのようにして身をひそめていられる次第。楠様、何卒、何卒」
志野の手は女性とは思えぬほどに固いものであった。恐らく相当の修練を積んでいるのであろう。十兵衛は、江戸の時の女房を思い出した。無論、女房のおみよはこのような手つきではなかったが、それでも思い起こさせるには十分であった。それに、志野とおみよは不思議とよく似ていた。
(世に三人に似る人物がいる、とはいうが)
本当かもしれない、と十兵衛は志野を見つめている。やがて、志野は頬を赤らめた。
「分かりました。だが、このような事は二度とせぬように」
「心得ました。楠様は、長州から来られたと仰いましたが、長州はどうなっているのですか」
「長州は、恐らく幕府を凌駕するほどの力を持っているでしょう。連合艦隊での戦は私も参加しましたし、高杉殿とはほぼ行動を共にしましたので、よくわかります。そして、今度の征討では幕府には勝ち目はないでしょう」
「何故、勝ち目がないと」
「一つは兵のそれぞれの装備が違う。長州はすでに西洋式の装備を整えているが、幕府軍はそのほとんどが戦国時代の物を使用している事。もう一つは、薩摩の存在です」
「薩摩?長州と薩摩が手を組むのですか」
そうだ、と十兵衛は頷いた。水戸の残党たちが歓声をあげる。
「それで、楠様は水戸に呼応を促すために長州から来られたのですね」
という志野の目を見て、とても
「違う。攘夷を知るために来たのだ」
とは言えなかった。逡巡をして、
「とにかく水戸の現状などを知るために来ました」
といった。
「では、長州は我らに助勢はしてくれぬと」
「今長州はそれどころではありません。遠からず幕府軍と戦うために、全力を注がねばなりません。水戸に助勢する余裕はないのです」
「されど、長州から来た貴殿がここにいるのは、いずれ長州と合力をするのでは」
十兵衛は答えなかった。答える立場にも、長州を代表しているわけでもなかったからである。ここへ来たのは多分に個人的な学術的興味から来るものであって、長州は関係のない事である。
だが、すでに諸生党によって虫の息までに追い詰められている天狗党の残党である志野らにとって、十兵衛の経歴は、希望を持たせるのに十分すぎた。その証拠に、部屋に居合わせている志野を除く三浦をはじめとする天狗党の者たちは感涙していた。
これには十兵衛は閉口したが、もはや仕方ない。十兵衛は覚悟を決めた。
「非力乍ら、貴殿らに御助勢いたそう」
水戸の天狗党に対する仕置は、言うなれば罪なき赤子が虫を殺しただけで打ち首になるが如き残酷極まるもので、十兵衛が土浦に入ったこの慶応元年の秋ごろには主だった天狗党の幹部たちはすでに切腹や斬首といった処分を受けていて、この世にはいない。残る者もそれぞれが爆ぜた土のようなばらばらになって逃げており、この旅籠の連中もその類である。
水戸天狗党は総勢で千名を超えていたとされる。しかし、その半数以上の三百五十名が斬首されるなどして、その勢力は滑り落ちるように失われていった。残った者たちも、悉くが諸生党連中によって引き出されは、首を討たれるという、一種のピストン運動のようなものになっていた。
無論、この土浦にいる者たちもいつ追捕を受けるか分からない。
ただ、藩主である土屋采女正は攘夷にある程度の理解を持っているために、おなじ攘夷勢力である天狗党の捕縛については少々消極的であるという事は、志野達のたすけになったわけであるが。
ともかく、十兵衛は図らずも攘夷の源流である水戸攘夷の天狗党に接触する事が出来たのである。
十兵衛は表向きは旅籠の手代としておさまった。もともと、江戸では観音寺屋で店を手伝っていたので、他の連中とは違ってその点は如才がなく、客扱いにおいても、吉十郎を除けばやはり慣れている。その十兵衛の姿を見ると、
「本当に長州で戦ったのか?」
という疑問が出るのも無理はなかった。武士はそもそも客商売をする職業ではないからである。
そうしているうちに、十兵衛の中に去来するのは、観音寺屋の頃の江戸の姿と安政の地震で亡くした妻女の事である。
十兵衛は、旅籠の仕事にひと段落をつけると、そのまま裏庭に回った。
この夜の空は、星の一つ一つが、手をかざせば掴めそうなほどに近い。光源はどこにもなかったが、それでも行動に全く不自由さがなく、それどころか眩しさゆえに目を細めるほどである。
裏庭に、腰を掛けられるほどの程よい大きさの石がある。十兵衛は時間が空くと、そこにすわってあたりの風景をぼんやりと眺めているのがいつの間にやら習慣づいていた。
すでに風の噂では長州と薩摩とが盟約を結んでいて、幕府軍の長州征伐も思うように進んでいない、という。
「当然だ」
と、十兵衛はおもった。かつて吉川に対して言ったことでもあるが、すでに長州は以前のそれとは全く違うものになっていて、長州という外殻は同じかもしれないが、その中身は全くの別物であり、いうなれば未知の生物のようなものである。
それゆえに、もっと慎重になるべきであって、全国から軍勢を掻き集めて、物量作戦で押し切れるような事態ではすでにない。ましてや、外国との戦で現実を知り、そこから方針転換を行って成功した長州が、古い幕府に負けるか、というとその可能性は、自分あての瓶詰手紙を見つけるように低いものであろう。ましてやそこに薩摩が絡めば猶更である。
(おそらく、幕府は瓦解するだろう。そうなれば、天狗党も日の目を見ることができるかもしれない)
そう考えながら、星天を見上げていると、
「よろしいですか」
と声をかけられた。志野である。
「お疲れでしょう。茶を」
志野は盆を差し出すと、湯呑に少し熱めの煎茶が淹れてあった。十兵衛は手に取って、それを少し音を立て乍ら飲み干すと、
「忝い」
といって、湯呑を戻した。
「なぜ、こちらに来られたのです」
志野が尋ねた。
「水戸の現状を知るためです」
「嘘ですわね。……考えれば、戦になろうかという時に、水戸にまで助勢できるわけがありませぬもの」
と、声こそ厳しくしているが、顔は穏やかに笑っている。十兵衛は少し悩んで、
「……実は」
と切り出した。
十兵衛は、長州での出来事を詳らかに語った。江戸から長州に向かい、そのまま高杉と出会っていつの間にか高杉と行動をともにしながら、しかし外国との戦で、攘夷というものの残酷な現実を知るに至った事、桂に水戸に行くことを勧めてくれた事などを話し、そして
「攘夷とは何だったのか。それを知りたくて、ここに来ました」
といった。志野はそれを聞いて複雑な表情を浮かべた。
「どうしました」
十兵衛はそれを見て不思議に思った。
「水戸は、確かに攘夷の先駆けです。しかし、それはすでに昔の事です」
「昔の事ですか」
「安政の頃の地震で藤田東湖先生がお亡くなりになり、烈公様もお亡くなりになって以降、我ら攘夷派たる天狗党の勢いは俄に衰えました。それと入れ替わるようにして諸生党が台頭してからは、我らは粛清されるようになり、筑波山での挙兵も結局は失敗に終わりました。そして、今は残党狩りから逃れようとしている始末です。それに」
「それに?」
「天狗党の主だった者はすべて斬首か若しくは切腹となり、果てました。いうなれば水戸は、攘夷の廃墟と化してしまっているのです。今を思うと重蔵様たちがやってこられたことが無駄になってしまいました」
「重蔵、とは稲田殿の事ですか」
かつて桜田門外において大老暗殺をやってのけた実行部隊の男で、十兵衛は稲田と面識があった。それだけではなく、稲田が暗殺を行い、その為に命を落としたところもしっかりと脳裏に焼き付いている。
「御存じなのですか」
「稲田殿が桜田門外での暗殺を起こしたとき、私はその場にいました。稲田殿を見届けるために」
「重蔵様は、どうでしたか」
「稲田殿ご自身は命を落とされました」
志野は目線を落とした。奥歯を噛んでいるようで、顎の付け根が隆起している。暫く黙っていた。
十兵衛が立ち上がろうとしたとき、不意に膝を打たれたようによろめくと、そのまま音を立てて倒れてしまった。遠くで志野の声が聞こえるが、すぐに意識が落ちた。