雷 第四話
阿部正弘が起こしたいわゆる「開国」という、急進的な変革は二十日ほど経つと、日本のほぼすべてが知るところとなった。ここからいわゆる幕末動乱の第一幕が上がるわけであるが、その幕の上がり方は一種異常と言えた。
それは、この田原町の道場においても例外ではなく、稽古が終わると必ず青臭い政治談議に花を咲かせることになる。
「昨今の老中方は何をしておられるのか。夷敵に攻められもすれば、この神州はどうなるぞ」
神州、というのは当節の流行言葉のようなもので、意味はこの日本、といった程度のものである。
「確かに。その点、斉昭公は筋の通った御方である。それに比べて奸物井伊直弼は何を考えているのか」
と口々にまるでテレビのコメンテータのような無責任の鄙語が飛び交う。十兵衛はその中に加わることはなく、いつものように最後の素振りを終えて、井戸で汗を拭っている。
「達磨。お前はどう思うのだ」
門弟の一人が声をかけた。
「どう、とは」
「どうって、今の御公儀のやり方だよ。夷敵を神州に上げることだよ」
十兵衛はさにわからぬ、といった風に首を傾げた。
「お前、それでも武士か。日ノ本にいるものとして、何も感じないのか」
と叱咤された。すると道場の中から
「放っておけ。所詮はクズ達磨さ。戻って来いよ」
という声が聞こえ、門弟はまた道場で政治談議に戻った。
「困ったものだ、近頃は随分と熱気に充てられているようだ」
後ろの方で声がしたので振り返ると、又十郎が苦笑交じりに呟いていた。
「あの者たちが言っていることが分かるか」
「分かりません」
「それでよい。なまじ、学のあるやつはああなってしまうものだ。自分の学の程度を測らず、自分の学を絶対のように扱う。そこがいかんところなのだ。お前は決してああなるなよ」
又十郎は十兵衛に念を押した。無論、十兵衛はそれを破るような男ではなかった。
十兵衛は長屋に帰った。長屋でも開国の事で持ちきりであったが、道場の連中と違うのは、この開国というものがひどく人ごとのようで、いうなれば天変地異の予言を聞いた町人たちが噂しあっている、というようなある意味ではごくのんきなものである。
しかし十兵衛にとってみれば少し辟易するものであった。というのも、道場の門弟たちが稽古が終わってからというもの、汗を拭くこともなく道場の板敷の稽古場を議会か何かと勘違いしそうなほどに空疎な激論を飛ばしていたからである。
「さあね。私には分からないよ」
長屋連中にはそうやってけむに巻いたが、実際の所も分からぬことが多いのが実情である。ただ、家に戻った時だけはそれから解放され、十兵衛はやっと落ち着くことができた。
「道場連中や長屋連中がずいぶんと騒いでいるな」
と十兵衛は笑いながらおみよに話しかけた。
「ええ。今日も朝からずっとあの調子ですよ」
「今日も?」
「黒船が来てからずっとですよ。まあ、私たちには関係のない事なんでしょうけどね」
といって、おみよはいつもの通り台所にむかった。
その背中を見つつ、十兵衛はただ漠然と
(この世の中がどう変わるのか)
という事は、人並みに興味は持っていた。