雷 第十二話
十兵衛はとにかく生きるために稼がねばならない。浪人である以上講武所には行く事も出来ず、かといって他の道場に行く当てもない。無論、他の門弟たちの伝を頼れば、なくもないのであろうが、どうにもそのような気分にもなれず、ただ十兵衛は稼ぐことに執心した。
あの大地震によって、十兵衛は妻子を喪ったのは前述のとおりであるが、大地震が与えた影響はそれだけにとどまらなくなっていた。
まず、おみよが居ないことで、稼ぎ手が居なくなってしまったことである。無論、十兵衛も用心棒という仕事はあったが、おみよの仕立て仕事がなくなってしまうと抜き差しならぬ状態になってしまうのは明らかであった。
もう一つは、虚しさである。大地震によって欠片ほどでもあった剣術に対する熱が一気に冷めてしまったのであろう。もともと無頼の徒であった十兵衛にとって剣術は今となってはさほど傾けるものでなくなってしまっていた。
観音寺屋の用心棒をしながら、店の手代や丁稚の真似事のような事までするようになった。
「人がいないので、随分と助かったよ」
というのは、観音寺屋を営む安吉とおこうの夫婦である。親から引き継いだ店を切り盛りしていたが、薬種という取り扱う品目が品目なだけに商売がすこぶる好調であった。十兵衛も用心棒とはいいながら、常に仕事があるわけではなく、またない方がいい仕事でもある。暇に飽かして見様見真似の手伝いをしていたが、剣術を止めてからは本格的に取り掛かった。
無論、いままで商売というものをつゆほどにやったことがないだけに、初めは分からぬことばかりで失敗も多かった。しかし、安吉夫婦を初め、人には恵まれ、どうぞこうぞ商売人として形にはなりつつあった。
安政五年はちょうどその頃である。
この年の三月、政治的激震が起こった。
日米修好通商条約の調印である。
これによっていわゆる「鎖国」という一種の限定的外交政策は完全に崩壊し、日本は諸外国と、いうなれば徒手空拳に近い状態で臨まなければならなくなった。さらに、幕府内外にいる攘夷派を大いに刺激することになり、日本は内憂外患を抱える状態になっていた。この条約は違勅条約、つまり天皇の承諾を得ていない条約であり、いうなればこれは、天皇をないがしろにした江戸幕府の暴走、あるいは高次元的越権行為に等しいものであった。当然、これには攘夷派も黙っているわけがなく、特にその攻撃が激しかったのは一橋家であった。
無論、孝明天皇も怒りをあらわにされ、同年九月一四日に密勅を発した。発した先は水戸徳川家である。この「戊午の密勅」は、権中納言である万里小路正房から水戸徳川家京都藩邸に渡され、さらに水戸徳川家当主である徳川慶篤に齎された。この天皇の政治的工作は水戸徳川家を大いに驚かせた。さらにこの時、万里小路は京都留守居役、鵜飼幸吉に「言外ながら」としたうえで、
―― 井伊を殺せ。
といったという。吉左衛門は、あっ、と小さく、ごく小さく驚きの声を上げた。
「そ、それは」
といったきり黙っている幸吉に、万里小路は公家らしく冷たい笑みを浮かべながら、扇子でもって口元を隠しながら幸吉の耳に添えるようにして、
「帝は、水戸を頼りになされている」
と、少しぬめりけのある、独特の声でささやいた。
この公家のいうなれば必殺技に、幸吉は落ちた。
「早速」
といってそそくさと立ち上がると、薩摩島津家家臣、日下部伊三治と共にそれぞれの本領に下った。
水戸徳川家当主である徳川慶篤は、この密勅を最初は
「冗談か何かであろう」
といって、偽勅である疑いを解かなかった。だが、取り次いだ家老安島帯刀が、幸吉より聞いた詳細を伝えるや否や、顔色を変えた。
「つまり、大老を排斥せしめよ、という仰せであるか」
「御意。それにつきましては、薩摩より数百の軍が上り、彦根城を攻めるという手筈になっておりまする。殿」
帯刀にせっつかれても、慶篤は顔色が変わったまま、ぬめりけのある脂汗を額に浮かべながら、思考回路を必死につなげようとしてるが、すればするほど、穴に通らぬ糸のように中々思考が定まらない。
それもそのはずで、水戸では、父である斉昭の手勢といえる天狗党と、幕府の関係性を重んじる諸生党という二つの派閥が肩を当てあっている状態であった。無論、この密勅においても対立することは明らかで、ほんの少しだけ先を言えば、この事が後に幕府の土台を徹底的に破壊せしめる契機となった事件が起こるのである。
「薩摩は、おそらく動けん」
慶篤は言った。
「何故でござりまするか」
「遠いからだ。恐らく、まだ薩摩にはこの事は着いておらぬであろう。だとするならば、我々は孤軍だ。いかに御公儀に対する怨嗟が満ちていようとも、いまだ御威光は衰えておらぬ。……まだ時期ではない。御公儀は何か言ってきているか」
「はっ、この密勅を返納するように、との事でござりまする」
慶篤は返納を決めた。
この一連の過激な政治闘争は、十兵衛には何の関係もないが、少し割いてこの項をあえて書いたのは、十兵衛が後に、渦潮に迷い込んだ木の葉のように激動の時代に巻き込まれる、いうなればこれは前準備だからである。
言うまでもなく、今、十兵衛は市井に生きる浪人でしかない。しかし、浪人は自由である。ましてや不幸にも妻子をなくした者は生きる事への心情的足枷は何らなくなっているといっていい。つまり、生きる時間の全てを、十兵衛は自儘に使う事が出来るのである。
これはある意味では極上の贅沢であるかもしれない。無論、生きるための糧は一切ないが、しかし文字通り何かに対して心血を注ぐ土壌はすでに作られていて、後は本人の意思如何である。
観音寺屋では半分自らが武士である事が、体のどこかに穴が開いて漏れていくように、徐々に忘れつつある。一方で、激変する江戸の政情を、何も感じなかったか、というとそうではなく、今更ながら
「イテキ相手に何をやっているか」
と心の奥底で憤慨していた。恐らく、当時の大多数の感情と同じくするものであった。黒船来航の後、まるで時流を先取りするような感覚で論じ合っていた田原町の道場の門弟たちのいう事が、ようやく実感として分かって来たのである。
とはいえ、いまだ店先で丁稚の真似事のような事をする以外に道がない十兵衛にとって、幕府のやっている外交政策には忸怩たるものがあり、例えばアメリカを皮切りに立て続けに結んだ外商条約については、十兵衛ならずとも容認できるものではなかったし、ましてやこれも違勅、つまり天皇の許可を得ていないものであるならば、猶更許されるものではなかったからである。
外国人にたいするアレルギが強い時代において、幕府が勅許を得ずに外国を受け入れる、というのは暴挙以外にどう見えたか分からない。そして、それを止めることができない(無論それが出来るわけがないのであるが)境遇において、十兵衛は何とも言えない苦さを感じているのである。