二人強右衛門

 武田信玄の死
 というものが、東日本一帯にどれほどの影響を与えたのかは計り知れない。
 おそらく、本人もそれを十分に理解していたのであろう。故に
 ―― 三年は秘せ。
 という遺言を残したに違いない。
 それほど、武田信玄という男の影響力は大きく、そういう意味では甲信越に大きな空白地帯が出来上がったといってよかった。だが、恐らく、それを一番理解していたのは当の信玄自身であろう。
 実際、『甲陽軍鑑』では信玄から勝頼への家督相続は信勝までの中継ぎという形をとっていることが記されていて、その点、信玄の用心深さと勝頼の冷静さを如実に物語っている。
 稀代の名将の死は、それまで出来上がっていた関東のパワーバランスが崩れた瞬間であり、その綻びはどれほど多い隠し、秘匿しようとしても、風に当たる布の切れ端のように、どこからか必ず漏洩するものである。
 その異変を素早く嗅ぎ取ったのは、同じ武田軍にあった奥平美作守定能であった。
「どうも、おかしい」
 この白髪の老獪な武将は、西上作戦に不信感を抱いていた。
 作戦そのものに不信感があるわけではなく、その進行度合いというか、行程にすこぶる遅れが出ている。
 三方ヶ原で家康を散々に打ち破り、家康の心胆に大いに傷をつけた武田軍団が、三河野田城の攻略でもって勢いが衰えた。というよりも、失速、あるいは停止といったほうが適切であろう。
(あれほどに勢いのあった武田が)
 そのくせ、この作手城には、何の便りもない。
(何かあったか)
 恐らくこの時点では信玄の死は知らないはずであるが、それでも定能は武田軍に対する不信感を拭えないでいる。それどころか、拭おうとすればするほど、油のしみ込んだ布でふくように広がっていくのである。
 この点、定能は小豪族の典型のような男である。三河や駿河といった地域には古くから小豪族が、大衆浴場のように東海地方という大きな湯船の中にその体をくっつけあい乍ら局地戦を展開している。そのような身分にあって、家の命脈を保つには、その時に勢いのある、あるいは将来性が見込める大名家の麾下に入ることしかない。無論、自ら勢力を拡大し、周辺と比肩するほどの力と権威を得れば話は別である。しかし、そもそもそれほどの大規模な領地を抱えているわけではない小領主には無理な話で、定能も己の限界というものは十分に認識していたはずである。
 ゆえに、何度も主君を変えながら、生き残ってきたのである。
 その主君筋に何からの危機がすでに入り込んでいる、と定能は踏んだ。
「……。強右衛門はおるか」
「はあ」
 喉をつぶしたような嗄れ声が聞こえた。
 後ろに傅いているのは、大木の幹のように図体の大きい男であった。ぎょろりと目を剥き、鷲の嘴のような大きく曲がった鼻柱に、裂けたような大きな口が尋常ならざる雰囲気を持っている。
「野田に向かえ」
「は」
 これだけである。強右衛門はすぐに山伏に変装し、野田城に向かった。

 野田城は菅沼織部正という人物が守っていたが、幾度となく武田軍の猛攻に晒されていて、何とか持ちこたえてはいたが、先だっての二月一六日にはすでに開城し降伏していた。
 鳥居強右衛門は、その野田城にいる。
 錫杖の鉄のすれる音が絶妙に耳に心地よく入っていくのを拒絶することなく、強右衛門は城の縄張りを中心に探りを入れた。
 野田城は小城である。いや、城というよりも砦に少し手を加えてそれらしく見せた程度で、武田軍ほどの精強な軍団であれば、象が小屋を壊すほどにたやすい。
(それが一月を費やした)
 その事が定能ならずとも、誰にも分る当然の疑問と言えた。前回、つまり二年前の西上作戦では、それこそ猛牛の一群が京までひっきりなしに突き進むような印象を与えたが、今回は全く真逆といっていい、同じ牛でも牧歌的な牛歩を思い起こさせるほどにはっきり言えば鈍いのである。
 さらに言えば、奪取したはずの野田城にいるべき人数がすこぶる少ない。
 強右衛門は剥いた目をさらに見開きながら、しかし気取られぬように周辺を探っていった。すると、
(城の守将がおらぬではないか)
 後詰の部隊程度は詰めているものの、本来、戦線を維持すべき武田方の武将が見当たらないのである。足軽大将程度の者がいわば城代のような形でいる程度であった。
(これでは城を取った意味がない)
 強右衛門はその巨木のような体を、土壁の穴に入るようにして小さくしながら城を探っている。
 野田城は藪の中にある小城で、決して堅牢とは言えない。しかし、
(これに一月も費やすか)
 強右衛門は城の縄張りを見ながら、つとに感じるのである。
 それと、城を落としたにもかかわらず、その威勢に全く勢いがない。それどころか、軍全体がなにかに怯えているような節さえ感じるのである。
(何におびえているのだ)
 武田軍は音に聞こえた精強な戦闘集団である。であれば、少々のことで揺らぐのは考えにくい。
(何かあったか)
 強右衛門は嗅ぎ付けた。というよりも、不安からくる脂じみた匂いが鼻をよぎったといったほうが適切かもしれない。強右衛門はその原因まで探ることはできなかった。
(が、御館様につたえればあるいは)
 強右衛門はすぐに作手城に戻った。
 強右衛門から一通りの報告を受けて、定能は嫡子である貞昌を呼んだ。
「徳川方に帰参する」
 貞昌が座るや否やそう言った。
 貞昌は呆気にとられた。
「正気でござりましょうや」
「……信玄は死んだ」
 貞昌の問の答えになってはいないのだが、それ以上の言葉であることは貞昌の態度の改まり方で察しがついた。
「まことですか」
「恐らくはな。だが、信ずるに近いものはある」
「見ておられぬのですか」
 貞昌は定能に食って掛かろうとすると、強右衛門は、それがしが申しあげまする、といって間に素早く割って入った。強右衛門の一連の偵察の報告を受けて、貞昌はある程度の得心がいった。
「しかし、ここで帰参をすれば、仙千代たちが殺されるのは自明。それでも」
「……やむを得ん。仙千代には、われらの為に礎になってもらうほかない」
「あまりにも無慈悲でござろう。父上は何とお考えなのですか」
「そのような事、お前に言われんでもわかっておるわ!!」
 あまり怒鳴らぬ定能の気迫は、定住を持たぬ、蝙蝠のような小豪族のそれではなかった。貞昌は身を固くした。
「だが、奥平の家を残すためだ。儂が冥土に行ったときに何度でも頭を下げてやる」
(あの男が)
 定能が言う、あの男とは、前当主で父親である貞勝の事である。
 貞勝は、最初松平氏(当主は清康)に仕えていたが、その後は今川氏に乗り換え、桶狭間で今川義元が織田信長に討たれると、今度は徳川氏に寝返った。徳川氏の前身は松平氏である。ところが、武田氏が優勢になるや今度は武田氏にまたも寝返った男である。
 こう書くと、いかにも裏切り者の印象が強いであろうが、一つ抗弁をしておくと、この戦国時代において使える主君を変えるという事は往々にしてあることで、こんにち我々が持つ「武士道と忠義」というのは、江戸時代に入ってからの倫理観で、戦国時代のそれとはまったく異なる。
 戦国時代は超然たる実力社会であり、主家が弱くなり威勢衰えると、こぞって見限ったりすることもある。それが大きな勢力を持たぬ小豪族ではなおさらで、その為に家臣によって主君が討たれる例は全国に、それこそ河原の小石のように転がっている。著名な例でいけば藤堂高虎で、この人物は豊臣秀吉に仕えるまでに七度主君を変え、しかも変えるたびに領土を拡大させていった人物である。
 ただその一方でやはり主君は家臣の忠義を試すために人質を取ることも多く、常に人質を生命の危機に晒したり、あるいは犠牲になってしまったりする。主君を変えるというのはそのような危険性が常に付きまとうのである。
 定能は父親の為に息子と一族の娘を見殺しにせねばならなかったのである。
 その定能の下に急使が来た。その内容は、
 ―― 長篠城救援。
 とあった。
「長篠城主、菅沼正貞殿、徳川方より急襲。至急救援せよ、との御館様よりの伝言でござる」
 急使は、紋切型の挨拶を行った後、そう伝えた。定能は、
「御館様とは、誰の事だ」
 そう、尋ねた。急使は、
「武田信玄公でござりまする」
「……そうか。という事は、信玄公は今長篠におられるのか」
「は、はあ」
「はあ、では分からぬ。儂らが長篠に赴けばすべては露見致すのだぞ。それとも、御大将がどうなっておられるのか知られるのは都合が悪いと申すのか」
 急使の歯切れの悪さに、定能は果たして確信を得た。武田軍団の綻びが表面化した瞬間であった。
「……。よかろう、長篠には儂と貞昌が行く、とそう伝えよ」
 急使はようやく落ち着いた顔をのぞかせ、すぐに戻っていった。

 作手城から出た長篠城救援の軍勢は凡そ一千。奥平軍勢のほぼすべてが向かった。後詰には貞勝と弟である常勝ら一五〇ほどしかない。
 奥平軍の進行はゆっくりとしたのもので、おそらく武田軍が見れば苛立って歯噛みをするか、あるいは床几の一つでも蹴り上げたかもしれない。救援の報が来たのが七月の初めであったのに、定能が腰を上げたのが八月に入ってからで、その時期になると長篠城はすでに落城していて、菅沼正貞は徳川方によってとらえられていた。
 ところが。
 正貞は首をはねられるどころか、事もなく解放され、無事に武田方に戻ったのである。
 ただでさえ、信玄死去、という重大秘事を抱えているだけに、武田軍は猜疑心かられやすい心理状況であった。
 ―― 内通しているのではないか。
 正貞に対する疑念が出始めた。その事を真っ先に指摘したのは、武田軍の中でも知性派といってよい武田信豊であった。
「奴は必ず、家康に内通している」
 信豊は言い切った。
「だが、証拠がないではないか。確かに、そうあっても不思議ではない。だが、徳川方に通じておるならば何故戻ってきたのだ」
 反論したのは、山県三郎兵衛尉昌景である。
「恐らくは我らの内情を探るためでござろう」
「内偵か」
 ふむ、といって昌景は小さな体躯を揺らしながら、兎唇を触っている。
「ならば、信豊殿はどうなされるおつもりか」
「正貞は小諸にてしばらく休んでいただこうではないか」
 信豊はそういって、一つ思い至った。
(奥平もか)
 そう考えれば考えるほど、信豊の猜疑心が本陣を埋め尽くした。
「しかし、奥平殿は自らの御子息を人質に出しておられるのだぞ。よもや、そのようなまねは」
「そうは言い切れまい」
 という信豊の見立ては、実は正しかった。
 定能は、自らの次男と三男、さらに養女にしていたおふうなる娘の三人を人質に出してる。しかし、長篠城救援の際の遅延と、急使からの報告による定能の態度が、信豊の心象を損ねていた。さらに厄介だったのが、長篠城主であった菅沼正貞と懇意にしていたことである。
 要するに、信豊は信玄を喪ったという衝撃の反動と、武田の家を守り抜くために頑なになってしまっていた。守ろうとする意志自体はなんらおかしくはないが、それが間違った方向に向かっていってしまったのが、この男の不幸であった。
 一方の定能父子は、すでに正貞への処分を察知していた。
「会うしかあるまい」
 定能は無表情である。
「しかし、今飛び込めば何の言いがかりをつけられるやわかりませぬぞ」
「いや、むしろ今すぐに会えば、いかに武田とて無下にはできぬ。貞昌は残っておれ」
 定能は甲冑姿のまま、武田本陣に入った。
 本陣では定能に対する疑念が、半ば妄念に近いほどにまで膨張してしまっていて、昌景ほどの沈着冷静を絵にかいたような人物ですらもそれに飲み込まれそうになっていた。
「奥平定能、まかり越しました」
 本陣の軍議机から、緊張が八方に飛び散った。
「通せ」
 昌景が許すと、定能は鬢の当たりにかかった白髪を掻き上げることなく軍議の末席に座った。
「定能殿、ご苦労でござったが、残念であった。長篠城はすでに落城してござる。定能殿はどうなされる」
「一旦は、作手城に戻り御大将が西上される折に、再び馳せ参じまする」
 信豊は、
「仙千代は、息災だそうだ」
 とだけ、言った。

 作手城に戻った定能は、主だった家臣をすべて集めた。無論、嫡男である貞昌、すでに隠居のみとなって隠然とふるっている貞勝もいた。
「われらは、今より武田より徳川方に帰参をする」
 定能は、父親をなかば恫喝するような口調で言った。
「待て。何故、徳川に走らねばならん」
「恐らく、信玄は死にました」
「信玄公が死んだという証拠はあるのか」
「ございませぬ。ですが、このところの武田の動きと、先だっての野田城の攻め方とを鑑み、さらに強右衛門に探らせましたところ、恐らくそれで間違いなかろうかと」
「し、しかしここで再び徳川方に帰参をすればどうなる。勇猛な武田の軍団の前には、われは木の葉のごとく砕かれるのみぞ」
「父上。信玄が死んだ以上、恐らく武田は瓦解しましょう。その時には必ず、徳川殿、織田殿が攻めて参りましょう。我らはその徳川に味方し、命脈を保つことなのです」
「ならば、仙千代はどうなる。おふうは、貞昌の許嫁ではないか。息子の嫁御を殺せるのか、ぬしゃ」
 場が場でなければ、定能はすぐに飛びついて殴り倒していたに違いない。置き石で漬けるように怒りをかみ殺し、
「それは世の慣わしでござる。信玄公亡き今、武田は早晩、瓦解しましょう」
「武田勝頼がおるではないか。奴はその信玄公が果たせなんだ高天神城を落とした勇将であるぞ。信玄公の後継者にふさわしい人物ではないか」
「確かに、勝頼という男は頼むに値する人物かもしれませぬ。しかし、後継者ではない」
「何故だ」
「『信』の文字が入っておらぬ。武田の一族は代々『信』の一字を片諱として名乗っておられる。ところが、勝頼にはなく、あるのは『頼』でござる。これは、まごうことなく諏訪家を継がしめるための諱でござろう。つまり、信玄公は勝頼殿を恃んでおらぬ、ということ。それを信玄公に付き従ってきた股肱の家臣たちは認めましょうか」
 貞勝は黙った。聞き入っているというよりも、聞き捨てている様子である。定能は、
「これ以上は無駄であろう。……我らはこの城を捨て、徳川方にはせ参じる。武田に付き従いたい者は残れ。その時は、我らが立ちはだかることになる」
 この一言は、家臣たちの心胆に堪えた。
 八月二十一日を期限として、誓紙を交わした家臣およそ八百が、静かに作手城を退去した。残ったのはあくまで武田方についた貞勝をはじめ百五十ほどであった。
 定能が徳川方に降った事は、貞勝が立てた使者によって武田方に伝わった。武田方の諸将、殊に山県昌景は、机を蹴飛ばして咆哮を上げ、他の武将たちも怒りの行き場を失っている。その中で、信豊だけがこの事態を予測していたようで、すぐさま
「人質を出せ」
 といって仙千代ら三人の人質を囲みを解いた長篠城からほど近い場所に引き出した。
「信豊殿」
「殺さねばなるまい」
 昌景に、信豊が答えた。言葉に感情が籠っていない分、信豊の冷酷さが余計に際立つ。
 信豊は表情を変えない。
 引き出された三人はすでに覚悟を決めているようで、どれもが従容として磔になって事態に立ち会っている。
「見事である」
 信豊は右手を上げた。三人の体に槍が幾度も突き刺さり、満杯の水の袋に穴をあけたように、澱みない鮮血が弧を描いて大地に注ぎ込まれた。

 その報が届いたのは、定能が家康のいる浜松城に向かった途上であった。
「串刺しで殺したそうだ」
 定能は事もなげに言った。
「いくら戦国の習いとは申せ、元服も終えておらぬ童を串刺しにするか」
「武田は信玄が死んでから焦っているのだ。故に血気にはやったのだ」
「といって、このまま黙って引き下がるのか」
「であるならば、そもそも家康に帰参すると思うか」
 などと、家臣たちの口々に上ったが、定能はじっとそれを聞いている。
「今すぐに引き返して、弔い合戦を」
 と誰かが言った。定能は、何も言わず、本陣をたたむよう指示を出すと、また浜松へ馬首を向けた。
 このころ、つまり一五七五年の九月にもなるとすでに武田信玄の死は確定的なものになり、ある意味では公然の秘密と言えた。
 徳川家康ほど、この情報に救われた人物はいないであろう。
 実際、この三年前の三方ヶ原では、一歩遅れれば間違いなく家康の首は飛んだはずで、いくら浜松城に籠ったからとはいえ、やり過ごせるような、武田信玄はそういう人物ではない。
「九死に一生だな」
 と、少々痩せこけたほほの皮を釣らせて言ったのは、武田信玄の脅威が、永久に地球から除去され、家康自身がその幻影におびえる必要性が生涯なくなったからである。
 その一方で、未だ精強たる武田軍団の猛威は留まっていて、奥三河と遠江は今田武田の勢力下にあった。
 そのなかで唯一といっていい奪還劇を演じられたのが、長篠城である。
(押し返せるか)
 家康は後年、野戦の名人と言われたが、それは勝ち続けたから成ったのではない。彼は負けなかった。正確に言えば負けきらなかったというべきであろう。漢の高祖が負け続けても最後の最後に項羽に勝ったように、家康も、取り立てて大きな好敵手はいなかったにせよ、最終的な勝利者として勝った。そういう意味では、家康と信玄の構図は、差異はある程度あれ、項羽と劉邦のそれに近いのではないか。
 信玄は攻めきれず、家康は負けきらず、守り切ったのである。
 家康が浜松城で、本格的な反攻作戦を実行するため織田信長に合力するよう依頼し、信長もそれに応じて東下している最中に、定能は浜松城に着いた。
 浜松城の大広間に着いた定能は、鎧姿ではなく打ち掛け小袖に京袴といったきわめて軽装であった。何より家康を驚かせたのはその髪型である。
「美作殿。どうなされた、その頭は」
 定能はそり上げた頭を叩きながら、
「これは、我が奥平の決意の証でござる」
 表情は真剣である。
「決意の証とは」
「我ら、故あって一度徳川様に仕え乍ら、武田に走り、今また恥を忍んで帰参致しました。これをもって、我が奥平家は終生徳川様にお仕えし、三河武士としてお支え申しあげる次第」
 家康はこの定能の言葉に、
(何をいいおるか)
 と鼻白んでいるが、それをおくびにも出さず、
「奥平殿が御味方してくれるならば千人力を得たも同じ。これからもよしなに」
 と言って、自ら定能に近づき、定能の手を丁寧に握った。
「しかし、当主殿がそのようななりでは」
「それにつきましては、これまでの経緯を踏まえ、それがしは隠居し、家督は倅めに譲るつもりでござる」
「貞昌殿が」
 家康は貞昌を見た。貞昌は定能の後ろで、静かに頭を下げた。
「そうか。相分かった」
「では、手筈通りに。よしなにお頼み申す」
(手筈)
 貞昌は定能の言葉を聞き逃さなかった。

 奥平の当主が貞昌に移ると、家康は「手筈通りに」貞昌と亀姫との縁組を即座に行った。とはいえ、実際に二人が祝言を上げるのは、この時より少し後の話である。
 同時に、これも「手筈通り」に、妹が同じ徳川の家臣である本多重純に嫁する運びになった。
(心中か)
 貞昌はそう直感した。
 つまりところ、定能は徳川家康にすべてを賭けたのである。信玄が死に、武田は早晩必ず瓦解する。そうなれば、必然的に徳川が旧領を回復するのは、動物が餌を食いつくすのと同じことである。無論、武田勝頼が信玄以上の統率力をもってまとめ上げれば瓦解することもなく、むしろ徳川は危機を迎えることになる。それは同時に貞昌らにとっても危機なのである。
(勝頼は高天神城を落としている)
「もしかすると、勝頼は信玄より上かもしれん」
 貞昌は揺らいでいる。
 武田信玄の戦上手は、海内に広がっていて、反信長包囲網の筆頭であり、たとえるならば最高指揮官といっていい。総司令官は足利義昭であるが、義昭自身にそこまでの軍事力はもっておらず、その意味では実質の総大将は信玄であった。
 その信玄が攻めあぐねた高天神城を、翌一五七四年の二月、勝頼は落としたのである。しかも高天神城は西上するうえでの地政学上最重要地点であり、それを奪った武田勝頼という男の評価を、貞昌がそう下したのである。
「いや。早晩必ず、武田は瓦解する」
 定能は再び、そういった。
「しかし、武田勝頼という男は侮れませぬ」
「あの男は強い」
「ならば。……」
「が、強いだけでは家中をまとめることはできぬ。ましてや、あの男を忌んでいる者が多い」
 貞昌が知らぬことを、定能は知っている。
「何故、そこまでご存じなのでしょうや」
「強右衛門を忍ばせておったのだ。もし勝頼が家中をまとめ上げておれば、野田城攻めをあそこまでもたつかせることはなかった。それだけではない、野田からさらに西に向けて今頃は岡崎を拠点にしておったであろう。恐らく、そうなればいかに織田信長公といえども、苦戦は免れまい。ややもすると、時間かかっても京に上るであろう。ところが、野田城には主たる将がおらぬ。それどころか、ことごとくが甲府に戻っていっておる。これは、家中の中で内紛が起きているということだ」
「内紛ですか」
「そうだ。武田という家に仕えている者と、武田信玄という男に仕えている者がいる。さらにこれにややこしいのが、勝頼自身の血である。奴は武田と諏訪の血を継ぐものだ。諏訪にとっては唯一の男児であり、武田にとっては嫡男の義信様がおられぬ以上、他に男子はない。そうなれば自ずと信勝様までの間とはいえ、一時的に武田の総領となる。それを、旧臣が認めると思うか」
 定能の視点はあくまで、武田崩壊の可能性を考えていた。定能にとって勝頼の強さは確かに侮りがたいが、それは個人として、あるいは部隊長としての強さであって、当主あるいは後継者としての強さとは決して関連しないのである。
 その点、年長の視点というべきであろう。定能はあくまで武田が隆盛を続けられるとは思えなかった。
「されど、高天神城を落とした事は、信玄公自身の宿願でもあったはず。それを成し遂げた勝頼は、纏め上げることが出来ましょう」
「勝頼だからこそやってはいかぬのだ」
 貞昌は理解ができない。城を落とし、父親を超えるのは家臣にとって十分に臣従出来る要件ではないのか。
「これがもし、義信様であればあるいはおぬしの言う通りであろう。しかし、勝頼はそうではない。信玄自身がいかに考えておろうとも、勝頼のその出生自身が何よりの妨げになっているのだ。家に仕えている者は臣従しよう。しかし、信玄個人に惹かれ、仕えた者が、信玄亡き後、何を縁として生きていくのだ」
 本稿よりやや少し後の、設楽ヶ原での決戦は織田及び徳川方の勝利になるが、武田軍団の散り方は、いうなれば命を河原に転がっている石のように投げ捨てた感が否めなくもない。
 無論、定能らはそれを知る由もないのだが、定能はそれを嗅ぎ取っていたのである。

 遠江と三河の悉くを奪われた中で、唯一奪還できたのが、長篠城である。
「婿殿」
 と、家康は貞昌の事をあえてこう呼び、
「長篠城を守っていただきたい」
 そういって、貞昌に命じたのである。家康は穏やかであったが、貞昌は
(試しているな)
 家康の奥底を見たのである。
 家康はあくまで穏やかであった。怒ったことがないような表情であったが、得てしてこういう人間ほど心底は計り知れぬものがあるのが常である。
 貞昌は、
「すぐに出立いたしまする」
 とだけいって軽く頭を下げるとすぐに軍容を整え、長篠城に向かった。
 長篠城にはいった奥平の軍勢はおよそ五百ほどで、長篠城に入ったのは一五七五年の三月である。すぐに出立したのは、武田勝頼がまたも長篠城を奪還せんと腰を上げたからである。その数は一万五千。
「大仰だな」
 貞昌は報告を受けて苦笑いした。
「それほど我らを恨んでいるという事か」
(それは互いであろうが)
 その為に、一族縁類を喪ったのである。貞昌には、この勝頼の行動が、癇癪を起こした幼児のわがままのように思えて仕方なかった。しかし、その幼児が過ぎた兵をもって侵攻しているのである。
 武田軍団は信玄の頃とさほど変わらぬ威容さを誇りながら、寒狭川と豊川を堀と見て、長篠城を囲っている。
 長篠城の小天守に立っている貞昌から見れば、武田の真紅の軍容が、鮮血の津波のように見えた。
「おかしい」
 貞昌は、武田軍団が闘牛のように、後ろ足で盛んに大地を蹴り上げている見えた。すぐに体当たりをすれば、長篠城は木板一枚すら跡形も残らぬであろう。にもかかわらず、武田は猛り狂った角を振りかざして威嚇するのみで、仕掛けてこない。
「強右衛門を呼べ」
 強右衛門の甲冑姿は堂々としていて、とても足軽とは思えぬほどである。知らぬものが見れば、一廉の武将と間違うであろう。
「鳥居強右衛門、まいりました」
 強右衛門が傅いて一礼した。
「見てみろ。武田がこの城を一飲みせんと、舌なめずりをしている」
 貞昌は目をそらさない。
「たしかに、武田の色がそう思わせますな」
 強右衛門は天守の格子窓からながめやると、確かに丸呑みにしようと口を開けているようにも見える。
「蓄えはどうなっている」
「鉄砲が二百、大鉄砲数丁整えてござりまする。兵糧蔵は十分に蓄えてござりますれば、二月は容易にしのげまする」
 貞昌は、
(凌げるか)
 よほどの不測の事態が起こらぬ限り、家康と信長の軍勢は陣容を整えられるであろう。そこまで敵を引き付けることができれば勝てる、そう貞昌は判断していた。
 五月八日。
 武田軍は長篠城を攻めた。その攻め方は猛攻と言えるようなものではなく、童が城の壁をけっているような、やけに攻撃が手ぬるい。拙攻といっていいほどである。
 一方の籠城している奥平軍は、鉄砲でもって撃ち掛けて応戦しているが、無論壊滅させるほどの威力はなく、牽制の度合いが強い籠城である。
 貞昌は武田の攻め方に、
(何ぞあるに違いない)
 恐らく、勝頼は『何か』を待っている。それが何であるか分からない。
「何と見るか」
 火薬の硝煙が、鼻梁に入り込んで焦げた匂いが脳の中央を鋭く突きさす。貞昌は、城の搦手に向かった。搦手には鳶ノ巣山という、小高い丘に毛の生えた程度の山があった。その山頂から麓までが、武田の軍によって鮮やかに真紅に染め上げていた。
 貞昌は搦手門の城壁によじ登ると、
「これか」
 とつぶやいた。鳶ノ巣山に陣取っている部隊(武田信実隊)の着陣および準備の完了を待っていたのであろう。
 貞昌は五百のうちの凡そ三百を整えると、
「日没を待って、搦手門から急襲する」
 恐らく、貞昌の生涯にとってこれほど、身体の体力を浪費した時間は他になかったであろう。五百の兵でもって、一万以上の大軍を相手に防ぎきらねばならない。それは貞昌自身が生き残る唯一のすべでもあるからである。
 五月一三日、日没。
 貞昌は自ら兵を率いて、静かに搦手門を開けさせた。武田信実の隊は静まっている。
「かかれ」
 気取られぬように、白銀の采で前方を払った。
 搦手門からうってでた奥平軍は、武田信実隊を襲撃、不意を突かれた信実隊はすぐに鳶ノ巣山に退いた。潰走であった。
「深追いはするな」
 貞昌は血気に逸ってなおも追撃しようとする部隊を腕にしがみつくように必死に堪えさせた。ところが、搦手門とは正反対の方向である弾正曲輪から大きな声が上がった。
「退け、退け」
 貞昌の采は、夜中にあっても判別できた。部隊を城内に入れ、城門を閉めると、守りを固めさせ、弾正曲輪に向かった。
 弾正曲輪はすでに城外からの火矢によって焼かれていた。すでに兵糧の悉くが焼失してしまっている。
(しまった)
 貞昌は漸く、勝頼の軍略を漸く理解した。
「やはり、戦上手かよ」
 貞昌に後悔の念がよぎらなかった、と言えばうそになるであろう。しかし、すでに家康に賭けた以上、何としても家康には勝ってもらわねばならない。その為には、長篠城を落ち延びることだけは出来ないのである。
 ゆうに二月、といっていた兵糧を喪うことで、形勢は定まった。兵糧は瞬く間に尽き、五百の兵は不安と焦燥で士気が崩壊しかけていた。
 貞昌は、
 ―― 家康の信を得る。
 という一点のみで、ともすれば夏の氷上の城のようにすぐにでも溶けてしまいそうな矜持をどうにか保たせている。
(だが、いずれ請わねばならんであろう)
 援軍である。それも、できるだけ迅速に、かつ秘密裡に運ばねばならぬ。兵糧蔵の焼け跡に眼を落としつつ、周りを見渡した。今は士気が辛うじて保てれているが、これが瓦解し、逃亡者が出始めるのは時間の問題であった。
 貞昌は天守に登り、城の四方を見渡すと、まさに蟻どころか、空気の流れる隙間さえないように包囲されてしまっている。
「殿」
 天守の床から声が聞こえた。強右衛門である。
「どうした」
「今、よろしいでしょうか」
「構わん。入れ」
 強右衛門が天守に登ってきた。貞昌は、
「今から逃げ出す算段か」
 といって眉間に深い皺を作った。
「殿。このままではいずれ城を枕に討死いたしましょう。それがしに、援軍の使者を仰せつけくださりませ」
「……岡崎の殿に援軍を請うわけか」
「左様。そうすれば、一縷の望みはまた託せることができまする。ご下知を」
 貞昌にとってこれが苦渋であったのは、援軍を要請する事は長篠城が危機であるという事を知らせることである。徳川から武田、再び徳川へと、猿の木伝いのように主君を変えた奥三河の小豪族の信用にかかわることといってよい。
(いや、それ以上に問題がある)
 と考えているのは、家康と勝頼がもしぶつかった場合、恐らく家康は敗けるであろう。敗けぬ、としても優劣は明らかで、そこは信玄という超個人が死んでもその威光がまだ残っている武田軍団の前に、三方ヶ原の二の舞だけは避けなければならなかった。要するに、家康に賭けた以上、家康が死ぬというのは同時に奥平氏の滅亡にもつながるからである。
「それでは、岡崎の為に我らが死ね、と仰せやるか」
「そうではない。ただ、今度敗ければ殿は間違いなくこの三河は武田に併呑される。そうなれば、いかな織田信長とて苦戦は免れまい。信長ほどの男が、終生対決を避けてきた相手だぞ。その精強さを知っておろう」
 強右衛門の激昂した姿に、一服の茶を淹れるようにして貞昌が諭した。
「では、この長篠は取られても良いと」
「そうでもない。だが、このままではいずれ落ちる。それこそ我らは徳川への信用を全く落としてしまうであろう。しかし、援軍を求めるとして、この中を掻い潜って岡崎に行けるほどの者がおると思うか」
「……それがしが行きまする」
「……死ぬぞ。喩え無事に戻ってきても、武田に捕まれば殺されるぞ」
「元より承知」
 強右衛門は短く言っただけである。
「分かった」

 十四日の夜半過ぎに突如として起こった、長篠城から大きな鬨の声は包囲している武田軍の寝顔を引っ叩いたようで、足軽たちが一気に浮足立った。
「夜襲か」
「どこかの隊が全滅したのか」
 などといって一気に緊張を四方に飛ばした。
 だが、長篠城からは打って出る気配はなく、一向に城門を閉じている。城内で上げているようだ。
「最後のあがきか」
 武田の将たちはそういうと、警戒を怠らぬよう指示を出しするとすぐに静まった。
 翌朝になると鬨の声はすでに消えていて、ますます武田の将たちは何事もなかったように包囲戦を再び始めた。しばらく睨み合いが続ていたが、長篠城から烽火が上がった。
「何の烽火か」
 報告を受けた武田勝頼はすぐさま周辺に斥候を放った。すると、
「雁峰山あたりから出たものと思われます」
 という報告を受けた。勝頼はすぐに、
「一帯の警備を今以上に厳しくしろ。不審な者あらば、すぐに引き立て、本陣に連れて参れ」
 とのことであった。

 強右衛門は半裸であった。護身用の刀を背負い、褌に裸足といういでたちで、篠突く雨に体をさらしたようである。さらに、足腰は定まらず、強烈な睡魔が絶え間なく全身を侵食するのである。
(さすがに、川下りは堪える)
 武田軍を欺くために、強右衛門は鬨の声を上げている間に、豊川につながる汲み取り口から出ると、糞尿にまみれながら豊川に出た。豊川で泳ぎながら全身を洗い流し、雁峰山付近まで泳ぎ着くとそこで川から上がったのである。
 しかし、いくら穏やかな流れになっている豊川とはいえ、やはり三里の遠泳は体に堪えた。それでも強右衛門は岡崎城に向かい、家康に援軍を請わねばならない。
 強右衛門は雁峰山に上ると、遠くに小さい長篠城が見えた。褌から火打石を取り出し、十分に乾いたところで落ちた枝と落ち葉を集めて火をつけた。小さな一流の糸のような煙が帰るように天空に戻っていくと、暫くして城から煙が出た。武田軍が気づいたのはこの頃であるが、強右衛門は城からの烽火を確認するとすぐに火を消し、雁峰山を西に向かった。
 雁峰山から家康の居城である岡崎城までは十七里ほどである。しかし、これは平たんな街道ではなく、三河から尾張までの三河高地の喉元を添うようにして向かうため、実際の高低差も含めれば、恐らく二十里ほどはあるであろう。
 強右衛門はその中を裸足でかけねばならない。
 枝が足の裏に刺さり、血を流し膿んでも、強右衛門はその走りを続けた。脂汗が全身を滑っても、遅くなることはあっても決して止まろうとしない。
 限界に来た時、強右衛門は刀の切っ先でもって食い込んだ枝を取り除き、褌の一部を引きちぎって足に巻き付けると、みるみるうちに血が滲んで赤い布に変わっていった。
(長篠城の殿に比べれば)
 強右衛門の表情は、もはや人間のそれではなく、羅刹のようであった。

 長篠城への武田軍の攻撃が激しくなった。激しくなったというよりも、
「狂ったのではないか」
 貞昌がそう思うほど、武田軍の攻撃はすさまじいものであった。ただ我武者羅であるがためにかえって統制がとれておらず、いうなれば武田軍の塊を長篠城の城壁にぶつけている様にみえるのである。
(烽火か)
 気性に似あわぬ温和な眼が見抜いた。恐らく、貞昌の意図を勝頼が見抜いたのであろう。ゆえに勝頼は焦った。貞昌は武田軍の動きが、餌に群がる貪狼のように感じた。
「武田軍は焦っている。援軍をあせったのではあるまい。恐らく、それまでに岡崎の殿の士気を完全にくじけさせようという魂胆であろう。しかし我らはこれに屈してはならん。強右衛門は必ず我らを助けるであろう。それまで、多少の無理をきかせてくれ」
 貞昌の風格はこの短期間で著しい大きさとなっていた。兵は鼓舞するための鬨の声を何度も上げ続けた。上げているうちに、何かが外れたように機敏な動きを見せ始めた。恐らく、武田軍からすれば、
 ―― これが、飢え死に寸前の城兵か?
 と疑問に思ったに違いない。こころなしか、攻め手が押し返されている様に感じたであろう。貞昌にはもはや強右衛門が心身ともに最後の砦あり、ここが崩壊したとき、恐らく三河はおろか遠く尾張をこえて岐阜まで武田の影響力がおよぶであろう。家康に賭けた貞昌にとって、それは自らだけではなく、奥平の命運そのもの全く砕かれてしまうことになるのである。
(死ぬのは怖くない)
 ただ、仇敵である武田の顔にかすり傷一つ付けられぬまま、言い様に踏みつぶされるのだけは何としても許せなかった。貞昌は五百の兵をせわしなく動かせながら、持ちこたえている。

 強右衛門の生涯は名もなき足軽の一人として終わっていたはずである。だが、この一事のみでもって自分自身がよもや日本に歴史が残る限り、永久にその名前を残し続けることになるとは、当の本人が一番驚いているであろう。そういう意味ではこの大柄な壮年は、ある意味において恵まれていたのかもしれない。
 その強右衛門が岡崎に着いたのは十四日の昼を少し回った頃であった。
「長篠城主、……奥平……貞昌が家臣、鳥居……強右衛門……と申す。火……火急の件につき、……御目通り願いたい」
 強右衛門はそういうと、大手門前で地響きを立てた。驚いた門番がすぐに取り次いだ。家康は、
「すぐに通せ。それと、薬師も用意するように」
 といって、すぐに強右衛門と面会した。
 強右衛門は足の治療の為に投げ出していて、それと褌のみの姿であった為にとても見られたものではなく、他の家臣が、
「正さぬか」
 と恫喝交じりに叱咤したが、とても足の組める状態ではない。
「長篠城への救援を請う」
 という岩をも砕くような強固な一念のみで、考えられない異常な状態で岡崎に着いた。その極度の緊張状態から解放されて、足の痛みが今頃になって、暴れだしたのである。
 家康もそれを見て分かっているようで、
「そのままでよい。長篠はどうなっておる」
「我が主君、奥平貞昌が孤高に奮戦して城を守っておりますれば、ぜひとも家康公に援軍ねがいたく」
「持ちこたえているのだな」
「家康公が御出陣なされれば、我が奥平勢の意気、ますます盛んとなり、長篠城は死守いたしましょう」
 家康は三方ヶ原からの憔悴からようやっと立ち直ったようでいささかふっくらとしていて、小熊猫のように小さな団栗のような眼を見開いている。
「それを告げにわざわざ、長篠城から脱出し、ここまで駆けたのか」
「は。それゆえ、このような不作法をご容赦願いたく存じまする」
「構わぬ。ここでゆっくりと休め。すぐに援軍を出す。しかし我らだけではない。織田殿もだ」
 強右衛門は慄えた。まさか織田信長がここまで出向いているとは思えなかったからである。
『信長公記』によると、すでに前日、つまり強右衛門が長篠城を脱したころには出陣し、熱田で泊まったあと、翌日には岡崎に着いていたのである。
(あの織田軍が)
 武田や上杉と並んで、精強かつ先進的な軍団が更なる援軍として、救援にくるというのだから、強右衛門は足の疼きも飛んだ。暫くすると、不規則な足音の大群が、広間に近づく。一団の先頭に立っている男が、
「おぬしが鳥居か。役目大儀」
 といって、家康の隣に座った。強右衛門はどうなっているか分からない。
「このお方が、織田信長様だ」
 家康に諭されて、強右衛門は慌てて頭を下げた。
 信長は少し華奢であった。それでいて面長で、口の髭もお世辞に蓄えているとはいいがたく、無精ひげに多少付け髭をもったほどである。声も少し高く、強右衛門とは何もかもが対照的であった。
「長篠は」
 信長はそういったきり黙った。意を察するに多少の時間がかかったが、
「守勢は五百。兵糧蔵を敵方に焼かれ、今はしのいでおりまするが、長くはもちそうにありません」
「デアルカ」
「さすれば、早急に援軍を」
 強右衛門は痛む足を台にして乗り出した。足の裏からどす黒い血が勢いよく噴出した。
「信長様、長篠を落とされれば、もはや武田の勢いは止まりませぬ。早急に」
 信長は頷くだけであった。
「強右衛門。すぐにここを出立する。十八日には、長篠を救う」
 強右衛門はざんばらになった髪を振り回しながら何度も礼を述べると、すぐに立とうとした。
「どうしたのだ。厠か」
「いえ。この事をすぐにでも殿にお伝えいたしたく、長篠に戻りまする」
「武田の網を掻い潜ってか。それにそもそもその足ではどうしようもあるまい」
「しかし、このままでは殿はともかく、長篠城に不安が出て参りまする。そうなれば、それは疑念となり、落ちてしまうかもしれません」
 家康はそのことに理解を示したが、当の本人が動ける状態ではない。同じ道を帰りにたどれば、おそらく強右衛門は捕まるであろう。
「そこまで言うのならば、使者を立てよう。……忠次」
 呼ばれたのは徳川家臣の中でも筆頭格である酒井忠次である。
「は」
「すぐに、長篠城への使者を立てよ」

 鈴木金七郎重政という男が使者に立った。強右衛門が重政の姿を見た時、
(これほどまで似ているか)
 双子と言われても遜色ないほど似通っていた。これには忠次も驚いたようで、
「世の中には似ている人物が数人いる、という話を聞いたことがあるが、これほどであると何やら寒気を感じるな」
 といって笑った。
 強右衛門は重政に、
「鈴木殿。本来ならばそれがしが戻らなければならぬが、このような仕儀にあいなり、誠に申し訳ない。長篠は、すでに武田の警戒が厳しくなっているはずでござる。十分にお気をつけなされよ」
 重政は軽装でかたじけのうござる、といってすぐに岡崎を出立した。
 重政は見かけただけではなく、健脚さも強右衛門に似ていたようで、長篠城が見渡せる雁峰山に着いた。
 すでに城の周辺は、それこそ針も通らぬほどに密になっていて、そこかしこで警備の足軽たちが、巡回している。
 長篠城は寒狭川と豊川の合流地点に建っているため、城の四方のうち二方が隔絶されている。その為に容易に近づくことが非常に困難であった。
 長篠城を遠巻きにしながら、重政は雁峰山から経路を模索し始めている。長篠城が、真紅の城壁で囲まれている。
「これ以上は無理か」
 重政は用意していた道具を取り出すと、烽火をあげた。
 遠くに長篠城が空気を押し上げるように鬨の声が上がった。
「そこで何をしておる」
 振り返ると、武田軍の足軽が数人、重政を捉えている。すでに槍の穂先が重政を全身を監視している。
 重政は観念し、烽火を消すと、そのまま有海村に連行された。
 有海村に陣を張っていたのは室賀山城守という人物で、元は信濃の大名であった村上義清の配下であったが、義清が信玄に奥信濃を追われてからは武田配下となって、武勇でならした男である。
 山城守の陣にはすでに勝頼がやってきていた。
 重政は麻縄を後ろ手に縛られて、引き立てられた。
「名は」
 勝頼の問に、重政は答えない。
「あそこで烽火を上げていたのは貴様だな」
「……」
「数日前にも同じことがあったが、それもお前か」
「……」
 勝頼は無表情に佩刀を抜いた。切っ先が重政のほほをかすめる。
「強情を張るな。何もすぐに殺しはせん」
 勝頼は重政を引き立てると、そのまま寒狭川の対岸に立たせた。
 長篠城がにわかに騒いでいる。城主である貞昌は天守にあって、重政を見下ろしている。
(強右衛門ではない)
 だが、あそこで捕らえられているのは恐らくは徳川方の使者であろう。
「強右衛門だな」
 貞昌は敢えて叫んだ。士気を考えたからである。
 重政の後ろで、山城守は、
「援軍は来ぬ、と伝えよ。さすれば、助命はおろか、褒賞にありつけるぞ」
 にたり、とする山城守の顔が浮かぶほどに、粘り気のある声であった。
 重政は刹那、足を不自由にした強右衛門を思い出した。文字通り命がけで果たした役目を目の当たりにしているだけに、その決心を揺らがせる事自体が、何より恥であった。
 重政は一歩進んで、長篠城に染み渡るほどの声で、
「二日でござる」
 と絶叫した。すでに信長と家康は岡崎を出て、牛窪城にまで軍を進めている。さらに野田原というところにまで迫っていた。
「二日だけ、何とか持ちこたえてくだされ。さすれば、家康様と織田様の大援軍が、必ずや御救いいたしまする」
 長篠城の五百の兵は、その押しつぶされそうになった武田の重圧を跳ね返した。その証拠に、湧きあがった掛け声は地響きを起こすほどの大きなものであった。
「貴様」
 山城守が重政の襟首を掴んで、即席の牢に閉じ込めた。
 重政の取った行動に、武田に動揺が走った。
 家康はともかくとして、信長の苛烈さと先進性は、この頃になるとすでに諸国に鳴り響いてたわけで、兵の剽悍さで差があったとしても、この鉄砲の存在が、碁盤を叩き割るほどの著しい不均衡を齎すのは目に見えていた。
 その信長があと二日で目の前に燦然と現れるのである。信玄なき武田がこれに対抗できるほど力を持ち合わせているとはとても考えにくい。さらに言えば、武田の精強さは信玄の用兵術があって初めて成立するものであって、逆を言えば信玄がいない以上、武田の用兵術を使いこなす器量が、勝頼にあったとは考えにくい。そうなると、必然的に優劣が広がるのは間違いないのである。
 にわかに武田軍が慌てはじめた中、落合佐平次は重政の牢番をしていた。
「しかし、おぬしも奇特な男だな」
「何がだ」
「そうではないか。武田方につけば褒賞はおろか、取り立てられることもあったろうに。徳川は必ず負ける」
「あるいはそうかもしれん」
「ならば、何故そこまで徳川に義理立てをするのだ」
「確かに殿にも義理はあるが、それ以上に、強右衛門殿の忠義を無駄にしたくなかったからだ。その為に片足をつぶした強右衛門どのの為にも、何としても伝えねばならんかったからだ」
 重政は強弁しなかった。それが佐平次の心にどのように響いたのかは分からないが、佐平次は
「早晩、おぬしは磔になるであろう。だが、その時におぬしの姿を残したい。よいか」
 敵方の、ましてや磔にされる場面を絵に残すというのは考えられないであろうが、これが佐平次にとって最大級の賛辞なのである。しかも旗指物にするというのだから、よほど佐平次は感銘を受けたのであろう。
「わかった。だが、はやくしろよ」
 重政はその意図を汲んで、承諾した。
 十七日の払暁になると、すでに重政は磔の台にあった。
 重政の覚悟はすでに決まっていて、声一つ立てることもなかった。
 槍の穂先がいまださめきらぬ太陽の暖色を受けて、虚空の血に晒している。
 長篠城が色めき立った。
 重政は逆さになって貼り付けられていたのである。ほどなくして、足軽の槍が二方向から重政の脇腹を貫通した。引き抜くと、鮮血が弧を描いている。次第に、勢いがなくなると、再び突き刺さった。
 重政の顔がすでに血塗られている。重政の反応が、なくなった。

 強右衛門が重政の最期を聞いたのは、設楽ヶ原において武田軍が壊滅的な打撃を受け、勝利をもたらした後である。
 すでに片足は使い物にならなくなっていて、貞昌は丈夫な木を選んで、杖を作って持たせた。
 この頃、貞昌は信昌と名を改めた。長篠城を守り切った功績による信長からの褒美であった。
 強右衛門は長篠城に戻っていたが、すでに鎧などをつけておらず、百姓姿で信昌に面会していた。
「どうしても、城を出るか」
「この足ではどうにも足手まといになりまする。それに、仙千代丸様や重政殿の事を思うと、あたら無駄にはできませぬ」
 信昌は何度か頷くと、
「ならば、命を粗末に扱うな」
 とだけいった。
「殿。ではこれにて」
 強右衛門が長篠城に出てからの足跡はわかっていない。だが、長篠城近くの田代村というところに、大きな男が足を引きずりながら住み着いた話が残っている。

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