雷 第二十七話

功山寺の山門が少し白化粧を始めた十二月十五日の夜、高杉は功山寺に潜伏している五卿に、深く端坐し、
「是よりは長州男児の腕前お目に懸け申すべく」
 といって頭を下げた。三条実美は
「高杉だけが頼りよの」
 と、少し震える声でいった。
 功山寺に集まった八十四人の革命戦士は、すでに湯気を立ち昇らせるほどの熱気でもって境内に並んでいる。十兵衛もその中にいる。高杉は、一室に閉じこもった。暫くして手紙を携えて出てくると、
「大庭はいるか」
 と叫んだ。大庭伝七はここに、とこれも叫ぶように答えると高杉のもとに向かった。
「大庭、これを白石殿に渡してくれ」
 大庭はすぐに遺書であることを察した。暫く大庭は黙っている。高杉は、
「これも立派な勤めだ。君がやってくれぬと後が困る」
 と少し微笑んで大庭の肩を叩いた。大庭はやっと決心をして、功山寺を出た。
 この八十三人は孤軍である。援軍の当てもないまま、高杉は決断したのである。
たとえ高杉といえども、大きな不安はあった。それが大庭伝七に託した遺書である。それだけ、高杉も勝算を見いだせなかった。
しかし、歴史の転換は赤ん坊が整然と並んだ碁石を悪気もなくかき回してしまうように、全く見えぬ、思いもよらぬところから力が加わって動くものである。
この維新期において、高杉はその存在であった。高杉はほぼ負けが決まりかかっている碁盤をひっくり返すべく、下関新地会所(奉行所)の急襲を計画した。
 功山寺から新地会所まで陸路で行く場合、ほぼ一刻ほどあれば到着できる距離で、奇襲をかけるには手ごろな距離であった。ところが、長州藩の支藩で、下関の領地である長府藩が藩主である毛利元周の名で、徒党を組んで往来することを禁止したのである。この時点で、実は俗論派は高杉の行動を把握していたのであろう。高杉という男の瞬発力というものを熟知していたからこそ打つことのできた先手である。
「先を取られてしまったか」
 高杉はそういって、苦笑した。
「陸がいかんのならば、海があるな」
「……船を調達してきます」
 石川は近くの三軒浜に向かった。三軒浜には漁村がいくつかあって、そこの船を当てにしたのである。
 漁村では幸吉という者が取り仕切っているようで、石川はその幸吉のいる家に向かった。
 幸吉の家は漁師らしく質素なもので、潮風による独特な壁模様になっている。
「御免。遊撃隊総督の石川小五郎である。幸吉はおるか」
 幸吉はいかにも喧嘩が好きそうな男で、漁師特有の色黒で腰が絞れてある精悍な男であった。
「はあ。総督様が何か御用で」
「船を借り受けたい。できるか」
「そりゃ、貸さねえことはありませんが、戦ですか」
 小五郎は少しためらったが、漁師の気性を考えると、素直に打ち明けるべきだと思ったようで、
「実は、高杉さんが藩の賊徒を討つ為に、是非とも船が入用だ、と仰った。そこで、おぬしに頼んでいうのだ。船を貸してもらいたい」
 と、打ち明けた。幸吉は、
「なら、それはしょたいのお仕事ですね」
 この一般人たる漁師にも諸隊の言葉は広がっている。
「そうだ。そして、我々は賊徒から殿を御救い申し上げ、そして」
 と石川は一呼吸おいて、
「この国難を切り抜け、幕府を打倒するのだ。その鏑矢の為の手伝いをしてほしいのだ」
 幸吉はその言葉を聞いて、全身を震わせた。
「たかが魚取りが、そんな天下の大事なんぞ分かりません。ですが、それが長州の為となるのならば、船でもなんでも持って行って下さい」
「そうか。この恩は必ず報いる」
「お頼み申します」
 幸吉は他の漁師たちにも頼み込んで、船を手配した。
 戻ってきた石川から話を聞いて、高杉は
「ようやってくれた。幸吉とやらの約束を果たしに行かねばならんな」
 高杉らを乗せた船は三軒浜から周防灘の脇を通るようにして陸地を見ながら進め、下関の新地会所に着いた。雪はすでに上がり、気温の差から靄がかかり始めていた。
 この会所を取り仕切っていたのは根来上総という人物で、後山口県の大参事(県知事)になる人物であるが、忽然と現れた船団を見るや、
「発砲はするな。全員待機しておけ」
 と言って、結局そのまま降伏してしまったのである。高杉は
(罠か)
 と聊か訝しい思いでその報告を聞いていた。その上で、
「楠君。ついて来給え」
 と十兵衛と二人で行くつもりらしい。これには伊藤が反対した。
「二人だけとは無茶です。私の隊を使ってください」
「いや、伊藤の隊はまだ使う事がある」
「では、石川殿の遊撃隊をせめて」
「それもいかん。遊撃隊は、いざというときの主力部隊だ。とてもこの小競り合いごときには使えぬよ」
 飽くまで、高杉は二人で行く覚悟を決めている。
「無茶な人ですね。……では、何かあった時はすぐに合図を下さい。事前に我らは控えておりますので」
 伊藤の折れぬ態度に高杉は笑いながら肩を叩いて、心配するな、生きて戻ってくるよ、と確信した口調で言った。十兵衛にも伊藤の疑問はよくわかるようで、
「高杉殿。不用心ではありませんか」
「君は、私の護衛だろう?その為に連れているのだ。それに、根来殿もその辺は弁えているよ」
 十兵衛を連れて、新地会所に乗り込んだ。
 根来上総はすでに武装を解除し、高杉らを受け入れる体制を整えていて、高杉と十兵衛はすんなりと入ることができた。
「変わらず無茶をするな、おぬしは」
 根来は高杉らを会所の根来の執務室に入れると、自身は奉行の椅子に座り、少し出っ張った頬を揺らしながら笑っている。
「こうでもせんと、正義は動きませんからな」
「だが、陸路であれば狙い定めし所を牽制したがゆえに、海路で来られるとな。それに、靄の中にいると分かりづらくていかん」
「根来さん」
 高杉は鉈で切るように話を変えて、
「正義派についちゃくれませんか。できれば、ここの物資をいただきたい」
 といって頭を下げた。根来は、
「つくのは別にいいか、ここには物資は殆どないぞ」
「そ、それはどういうことですか」
「あの物資は殆どが萩に向かって、今頃は中に運び込まれいているかもしれん。なんせ、このくらいの事は容易に察しはつくさ。ここにあるのは必要最低限のものしかないぞ」
 確かに、物流倉庫の役目を果たしていたこの会所の蔵を見てみると、鉄砲や火薬はおろか食料も最低限の物しかなく、おそらくこれを奪取したとしても熱した石に水滴を垂らすようなものでしかない。
 高杉は当てが外れた事を露骨に顔に出した。根来はそれを見て大いに笑い、
「何がおかしいのですか」
 と高杉に詰め寄られてしまった。
「いやいや、天下の高杉晋作と雖も、そのような抜かりがあると、我らも安心が出来る」
「安心?」
「つまり、お前さんも、人間だという事だ」
 高杉は何の事だかわからないが、根来は続けて、
「萩の物資をどれだけとれるか分からんが、やるたけやってみよう。その間に、あの程度の連中じゃ芥子粒にもならん。……考えてみろ、今藩政を握っている俗論派の勢力はこんなものではないぞ二十倍はあるだろうな。勝てるか?そのような連中に」
「……諸隊をかき集めます」
「どうやって」
 高杉はすぐに山縣の顔を思い出した。
「山縣、……でしょうね」
「だが、今の中に山縣がいるのか」
「……必ずやつは来ます。そうなれば、情勢は絶対に変わる」
 高杉が断言した双眸は死んでいない。

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