雷 第三十一話
すでに萩城において、俗論派は全く優位を失ってしまっていて、どうにも手の施しようがないほど正義派の動きは加速していた。
赤村での夜襲が成功してすぐに、諸隊は山口に陣を変えた。萩の俗論派は海の癸亥丸と山口の正義派との挟み撃ちのような格好になった。
「これでは為す術がない」
俗論派の首魁である椋梨藤太は神経をすり減らしながら、正義派との対話を模索している。正月十九日の事である。この頃になると、孤軍になっていたのはむしろ俗論派であり、藩主勢力が劣勢に立つ、という奇妙な構図になっていた。
この間、正義派は焦れている。
「幕府軍が味方したらどうなるか」
という事である。そうなれば、最新装備を整えている幕府陸兵に対しては、現状では太刀打ちどころか、一矢報いる事すらできないであろう。そうなれば、本当に焦土と化してしまうのである。
「ならば、朝鮮で立て直せばいい」
と高杉は言うが、しかしそれでは亡命政権となり、なんら正統性を持つ事は出来ないでのある。とにかく、そうなる前に和議でも何でも結ぶ必要性があった。
一方で萩城では正義派に与する中立派「鎮静会」なる政治集団が俗論派にとってかわりつつある。この時の中心人物は毛利将監という人物で、萩城では家老職であり、毛利家の分家の血筋の人間である。
「山口は焦れているか」
将監はこのまま諸隊が暴発することを恐れている。そうなれば、高杉が功山寺で決死の覚悟で挙兵が水泡に帰するだけでなく、長州そのものが幕府によって踏みつぶされてしまう可能性があった。
功山寺から続く一連の藩内革命の総仕上げが近づきつつある中で、藩主、毛利敬親は萩城でただ待っているだけである。
「大殿、家臣一同集まっておりまする」
小姓の呼びかけに、ゆっくりと腰を上げ、少し眠たげな瞼をしっかりと上げると、大広間に着いた。
大広間では、鴻城軍を率いている井上聞多、伊藤俊輔、石川小五郎ら正義派が敬親の左前に居並び、かたや椋梨藤太、中川宇右衛門と俗論派が並んでいる。敬親は井上の荒くれた顔を見つけて、満足げに頷いた。
口火を切ったのが誰なのか分からないほど、議論は初めから過熱している。
―― 幕府に恭順するのか。それとも、長州一藩で野風になるのか。
もう少し分かり易くいうと、俗論派はあくまで幕府に恭順し、幕府の言う通りに従う事で、正義派はその幕府がすでに揺らいでいる以上、当てにはならない。自らが日ノ本を変えて、諸外国に立ち向かうべき制度を整える事を重要視している。
恐らく、維新回天の分岐点を考えるとすれば、この会議前後であっただろう。高杉が奇術師のように立ち回って見事に長州の意識改革を行い、しかしその一方で、諸外国との雲泥万里といえる技術力の差という危機感を煽り、さらにその諸外国が日本を狙っている事、その姿が上海租界にあった事など、内外の現実を全て踏まえたうえでのこの会議は、日本の決断と言ってよかった。
この会議は長かった。朝早くから始まって、昼休憩も挟まず、鳴る胃袋を抑え込みながら侃侃諤諤と議論している。途中、小姓が敬親の昼御膳を運んできたとき、思わず井上が、
「国家の危難の折に飯なんぞ食っとる場合か。さっさと下げろ」
と怒鳴り散らした。敬親はこれには苦笑して、小姓を下げさせると議論は再び熱を帯び始めた。中立派である毛利将監も、これに触発されて俗論派を「弱腰」と罵り、さらに
「今恭順をして、元の通りに収まると思うておられるのか。藩を改革せねば、明日はありませんぞ」
と叫んだ。井上もそれに同調し、
「そうだ。いずれ諸外国に蹂躙されるのは目に見えておる。それを防ぐためにも、悪しきを正すことが肝要である」
と拳を震わせた。
「ならば、今の幕府軍に我々が勝てるのか」
中川が切り返した。すると、
「幕府とやりあおうなどと思っておりゃせん。あくまで我々がとる道は、一刻も早く藩を統一することだ。今やっても勝てんだろう。ならば、あくまで恭順を示しつつ、備えは怠らぬ。いうなれば、『武備恭順』というべきか」
井上は食ったような態度で話した。
「それでは、詐略ではないか。そのような事が通じると思っているのか」
「通じるのだ。『朝廷の御為』やら何やら。そもそも、表に出なければそれでよいのだ」
井上がそう言ったところで、敬親は厳かに手を上げた。
「長州は」
皆が一斉に静まった。
「幕府に恭順を示す。だが、来るべき戦に備えよ」
これで藩の統一がなった。正義派の勝利の瞬間である。
高杉はこの一報を聞いて、初めは呆然と立ち尽くしていたが、やがて雪を見た子供のようにはしゃぎながら走り回った。
「これで、後は俗論派を黙らせるだけだ」
実際、俗論派はすでに生気を失っていた。萩の俗論派軍と正義派軍の休戦協定が成立した。その条件は、
一.俗論派椋梨以下を御役御免。
二.俗論派を逮捕し、野山獄に入獄。
三.正義派に与する者の釈放。
というものであった。
これについての期限は正月二十八日であった。敬親は、山田宇右衛門、兼重譲蔵、中村誠一といった正義派の重鎮たちを起用した。その一方で俗論派も最後のあがきを見せ、期限の二十八日になっても解決はされなかった。高杉は、
「船から威嚇させよ」
と伝令を出した。福原は心得たとばかりに、
「撃て」
と命じた。無論、空砲である。これにはさすがの敬親がまず驚いた。
「高杉め、無茶しよる」
と半ば怒り、あきれつつ俗論派を一掃した。ちなみに俗論派はその後津和野まで逃亡したが、それぞれが逃げきれぬと自決したり、あるいは捕まって自害に及んだりしたが、唯一椋梨だけは斬首、という不名誉な刑死を遂げてしまっている。