雷 第七十二話
十兵衛が焼き討ち事件を知ったのも同じ十二月二十五日であった。十兵衛は、
「薩摩との戦か」
と吉川新八郎に話した。吉川は、
「戦となれば、我らが勝つでしょう。江戸にはこれだけの軍勢がいるし、撒兵隊も当てにできる。のみならず、そもそも薩摩と我らとでは、兵の数が違うではありませんか」
「兵の数でやる戦すでに終わっている。薩摩と長州の装備は、ここの数十年先を行っているようなものだ。ましてや、軍制においてもわれわれより慣れている。実戦においても」
十兵衛はかつての長州の絵堂の戦争を思い出していた。その前の馬関戦争と薩英戦争も含めると、薩長の軍事練度は、幕府のそれをはるかに上回っている。経験も備わっている。一方、幕府方の方はというと、装備もフランス式にはなっているが、小銃はゲベール、ミニエーが主で、この時点で薩長はエンフィールド銃からそれを改造したスナイドル銃へと変わっていた。
幕府方が勝っているのは数だけで、装備や軍制、経験値は薩長の方が勝っていた。
「では、我らは負けると」
吉川はそれを聞いて、憤慨気味に訊ねた。十兵衛はそれに頷くだけである。
「たかが、二藩合わせて百万石ではないか。そのような連中に、我らは負けると申されるか」
「負ける。長州にいた時より、薩長はさらに訓練を積んでいるだろう。確かに、我々も訓練をよくした。だが、実戦がない。その事は大きい」
と言ってはいるが、実戦経験がないわけではない。実は、十兵衛自身が戦っているはずである。というのも、撒兵隊がまだ御持小筒組と称していた折、第二次長州征伐で戦っていたのである。
その事を言いたいのか、吉川は納得が行かない様子で、尚も何か言いたげであったが、十兵衛の説得力に押されたのかそれ以上は何も言わなかった。
十兵衛と同じころに焼き討ち事件を知った人物がいる。その人物はそれを知ってすぐに庄内藩の江戸屋敷に入った。
「勝だが、誰かいるかい」
応対に出たのは先にでた安倍藤蔵と、新徴組取締の一人で、百石の俸禄を得ていた山口三郎という男であった。
「勝安房守殿がいかなるご用件で」
「焼き討ち以外に、こっちに来る用事はないさ。で、どうなんだい」
「どう、とおっしゃいますと」
山口はぎょろりとした目を光らせていた。
「やったのかい」
「やりました。あれは薩摩がいかんのです。そもそも、江戸市中取締りは我ら庄内と新徴組の役目。それに、関係のない者まで巻き込んだ挙句に、商家に押し入っては「御用」と称して金子を強奪までする。太平の世であっても、きゃつらは斬首に処せられるほどの事を引き起こしていたのです」
正論だ、実に正論だ、と勝は言った。
「だが」
と付け加える。
「これは戦になるぜ。薩摩と幕府のさ」
勝の威しを虚仮と考えたのか、山口はたらこのように膨れ上がった口を動かして、
「なるでしょうが、大きくはなりますまい。精々、小競り合い程度でしょう」
「それに、今後のこともありますし、ゆっくりやればよろしかろうと存じまする」
安倍はそう付け加えたが、勝は
(果たしてそう上手くいけばいいんだがね)
この二人の考えが、どうにも楽観的過ぎるような気がするのである。
年明けた慶応四年は、こんにちでは明治元年と同義である。
明けた一月三日に、勝の不安は的中した。
薩摩討伐を掲げた慶喜が元日に京に出兵、其れに随行していた会津、桑名などは伏見に入って、事実上の京都封鎖を開始した。これに対して京では会議が設けられ、薩摩が「徳川征討」を掲げるのに対して、春嶽は「薩摩と徳川の私闘」として反論した。が、元来より徳川をせん滅する事を考えていた岩倉具視が薩摩方に与し、ここに「戊辰戦争」が始まった。
戊辰の年に始まったので戊辰戦争であるが、事実上は新政府の初陣といえた。最初に衝突したのは下鳥羽での幕府軍と薩摩軍である。薩摩五千に対して、幕府軍は一万五千である。だが十兵衛が言った、
―― 兵の数ではない。
という事が、この戦争において、物悲しいほどに立証された。鳥羽では幕府方総指揮官の不在、伏見では統制がとれない事があって、幕府方は総崩れになった。ここまでは少し歴史を調べると分かるのであるが、実はこの鳥羽伏見と同時期にもう一つ戦争があったのは意外と知られていない。
その場所は阿波沖(大阪湾)である。幕府軍は榎本釜之助が指揮する開陽丸で、薩摩海軍は軍艦春日丸、輸送船の翔凰丸、平運丸である。じつはこの海戦では幕府方は勝っているのであるが、鳥羽伏見によって負けたために、この局地戦は意味がなくなってしまった。結局、制海権は新政府側が握ることになった。
この戦いによって幕府が辛うじて持っていた「威厳」は完全に打ち砕かれた。ただ、打ち砕いたのは「負け戦」そのものよりも、この後の事である。
この後の事、というのは戦が始まって三日後の一月六日、それまで消極的とはいえ、幕府方の総指揮官であった徳川慶喜が、少数の側近を連れて夜陰に紛れて開陽丸で大坂を脱して江戸に逃げ帰った事である。これによってただでさえ低い士気であった幕府軍はこれで崩壊し、駆り出されたほとんどの大名家の軍隊はそれぞれ自らの領地に戻っていった。しかも、慶喜は
―― 最後の一兵になろうとも退いてはならぬ。
と高らかに演説した後に逃げた事もあって、慶喜に対する期待は一気に冷え込んだ。のみならず、こんにちの歴史評価において未だに毀誉褒貶が著しいのは、一方で大政奉還を決断し、新時代の幕を開けたにもかかわらず、いざ戦争となると真っ先に逃げ出したという二つの要素が複雑に入り混じっているからである。
慶喜が江戸に着いたのは十一日で、すでにこの頃になると江戸にも事の顛末は広がっていた。
撒兵隊や新徴組にも伝わっており、十兵衛は、
(江戸が戦場になるのか)
と考えた。そうなればこの百万人都市は大混乱に陥る。それだけではなく、江戸が灰燼に帰するという事になり、それは江戸が歴史から姿を消すという事でもある。撒兵隊の面々も、ここにきてようやく戦争がすぐそこまできている肉感を感じ取ったようで、ある者は空回りするほどに気合いを入れたり、ある者は逃げ出したりして、ほころびが出始めていた。ここでも、十兵衛のいう「実戦のなさ」が如実に表れた。
さらに情報が西から来た。
すでに慶喜は朝敵となっていて、新政府軍が東に下り始めている、という事である。
「いよいよ始まるか」
江戸周辺が慌ただしくなっていた。
江戸城では大幅な人事変更がなされ、特に主戦派であった者たちは悉く遠ざけられ、恭順和平派によって占められた。特に慶喜が期待をしたのは陸軍総裁になった勝と会計総裁になった大久保一翁である。
「さて、どうしたものかねぇ」
勝は陸軍総裁になっても、元来の江戸っ子気質のままで、この重大な局面を迎えている。
(要は喧嘩の仲裁なのさ)
その程度の気軽さでなければ、この任の重圧には耐えられないであろう。勝はこの重大事をそう捉えていた。そうした中、二月一五日に慶喜は上野寛永寺に謹慎し、恭順の意を示した。
が、薩摩を中心とする主戦論は止まらず、新政府軍は東へと進み、駿府城に入った。勝はいよいよ江戸にくる、と戦争の可能性が高まるにつれて覚悟を決めた。これ以上の譲歩が出来ない以上、話の分かる人物と交渉をしなければならない。
(誰がよいか)
となる。薩長側の中で、穏健派は絶無である。皆が主戦論を唱えている。そこをひっくり返すのだから、大きな影響力を持つ人物で、しかも話の分かる人物でなければならない。となると、
(西郷殿しかおるまいて)
となる。唯一の綱は西郷である。
「……。民はいねえか」
はい、と民は答えて勝の元に来た。
「江戸が戦になるかもしれねえから、お前さんは一応の用意はしておいてくれ。ガキ共も頼む」
そういって立ち上がるので、
「どこにお行きなさりますので」
と尋ねると、ちとお参りさ、とだけいって屋敷を後にした。
勝が向かったのは上野寛永寺で、慶喜に会うためである。慶喜が謹慎しているのは寛永寺の大慈院という所で、根本中堂にある。慶喜はそこで日長一日、書物を読みふけっている。端坐している姿はともかく、謹慎していることもあって髭は一切当てておらず、伸び放題になっていた。
(少しやせられたか)
勝は慶喜の姿を見てそう思った。慶喜は勝の姿を見つけた。勝は慶喜の傍により、
「政府軍がすでに駿府にまで来ておりまする」
「知っている。江戸の事は、全てそちに任せている。思うがままにしてくれ、そなたであれば、良きに図ろうて呉れると、確信に至っている」
慶喜の誇りは失われていなかった。勝は参ったように平伏し、
「つきましては、伊勢守殿をそれがしにお貸し願えまいか」
恐る恐る願うと、高橋伊勢守(後、泥舟)が
「勝さん、私がここで今抜けたら、誰が護衛するのですよ。行きたいのはやまやまだが、ここを離れるわけにはいかない」
といった上で、
「鉄太郎はどうだい。あいつなら、肝も据わっているし、うってつけだと思うがね」
「伊勢守殿が見込んだ弟様なら、こっちもようがす。鉄太郎殿を、御貸し願います」
と山岡鉄太郎に白羽の矢が立った。
「では、ちと用事がございますので、後で鉄太郎殿を当屋敷に向かわせてくれませんか」
勝はすぐに屋敷に戻った。
戻るなり、勝は書斎の中に引っ込んで、懸命に筆を執った。慶喜の事情を詳らかに書き、さらに新政府に対して叛意がない事、さらに上野寛永寺に自ら謹慎していることなどを書いた。そして尋ねて来た山岡を部屋に呼び入れると、
「これを、西郷吉之助殿に渡してくれ」
と、したためた書状を渡した。山岡は、
「西郷とはどのような人物ですか」
西郷の姿を見た事がなかった。勝は、
「一番大きい野郎さ。それですぐに分かる」
といった。
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