黒スダのDARK PAST #1 なぜか人に避けられるこの男
プロローグ
経営コンサルタント・大前研一氏の名言にこのようなものがある。
昨年3月、ダメな自分を変えようと俺はこれらをすべて実行した。
まず、住む場所をガラッと変えた。
すると、会う人たちの層が変わった。
やるべきことのために時間配分が変わった。
おかげでやりたいことをやりやすい環境になり、行動力がかなり増して、口先だけだったこれまでの自分がウソのように変わった。
だが正直、心の底から納得がいってない。
きょう現在、この身に起こっている一連の人生の出来事はこれまでの自分が取ってきた行動による結果なのだ。
つまり己が取ってきた行動をさらに改める必要がある。
ということは"これまでとは違う選択をまた行えばいい"。
この歳になるまで、俺には"ある思い込み"が心を苦しめていた。
それは"周囲から好かれなきゃいけない"ということ。
だから俺は敢えて嫌われ者になろうと思う。
その誤った思い込みを捨てるために。
俺の名は須田剛史。新しいタイプの作家をしている。
この目に留まった素敵な役者さんたちや演劇関係者を幸せにするためにYouTubeでボイスドラマやインタビュー番組の制作やプロデュースを行う。
見ての通り、なかなか上品そうな好青年だ。
「おい、それ自分で言うか?!」
そう思うだろう(笑)?
言っておくが、この人生かなりハードモードだった。
「ふざけんな、お前よりもっと大変な思いしている人がいる」って?
そりゃごもっともだ。
もう自分が悲劇のヒーローだなんて思ったりはしない。
だから俺は黒歴史にまみれた弱い自分と向き合うことにした。
この人生、黒歴史(=DARK PAST)のオンパレード!!
世間が定めたキレイなレールの上を踏み外しては転んでばかり。
しかしその長い暗黒時代こそが俺をきょうまで生かし、人としての免疫力を高めてくれていたのだ。
キャッチコピーは
「他人よりも成長が10年遅い男」
誠実そうな見た目をしている俺だけど、心の中はドス黒い。
我がダークサイドを通称・黒スダと呼んでいる。
これは「自分嫌いだった黒スダが、己の心の恥部をさらけ出しながら生きづらさという謎をひとつひとつ解いていく前向きな物語」。
さて初回はどうしようかな?
「なぜか人に避けられる」というところから取り掛かろうか。
なぜか人に避けられる
言っとくが、俺には友達が少ない。
今もつながっている同級生は地元の親友と役者をしている友人たちのみ。
最近はやっと「これでいい!」と思えるようになったが、以前は違った。
SNSへ投稿するたびにいろんな人たちから「いいね」とリアクションされる同級生たちを目にするたびに羨ましかったのだ。
「みんなは他人から相手にされてる。俺は何をしたって無反応なのに」と。
ほとんどの学校では"友達をたくさん作ろう"という謎の風習が染みついており、俺の生まれ故郷はとくにそれが顕著な地域だった。
ムラ社会というのだろうか?
そのなかでいつも外れたところにいた俺は、「とにかく好かれたい」という気持ちがいつも脳内を占めていた。
最もつらかったのは異性関係。
女の子と仲良くなれたと思ったら、しばらくして無視されるのだ。
「なぜなんだ?」
思春期の男にとってこれがどれほどきついか。
"異性に求められない=無価値"という構図が、自尊心をズタボロにした。
この事態は成人してからも続き、長らくその理由がずっとわからなかった。
最初に異変を覚えたのは小学1年生。
運動会の昼休み、誰とも群れることなくひとりでご飯を食べていた。
周りを見渡せばクラスメイトたちはグループを作ったり、異性同士で仲良くしたり。
みんなに出来ることが自分には出来ない。
だからこそ解決しようと足掻くも変な行動を取ってしまい、更なる誤解が生まれて悲惨な結果の連続。
すると次第に何もしたくなくなっていった。
勉強も恋愛も人生も面倒になった。
学習性無力感に陥ったのだ。
俺がメガネ姿の文化系ガリガリ坊っちゃんゆえ、生物の本能的に体育会系の男子を求める女子たちのニーズから外れていたことも一理あっただろう。
悔しくて悔しくてしょうがなかった。
俺だって相手にされたい。モテたい。
だが、成す術が無い。
そもそもその年齢のガキが生物の生殖本能の仕組みなんて知るはずがない。
その劣等感から自己肯定感の低さはどんどん積み重なっていった。
とにかく自信が無く、何かあっては常に自分を責め続けた。
それを解決するために取った苦し紛れの行動が、何とか人に好かれようと尽力すること。
鉛筆や消しゴムやハサミといった物を無くて困っているクラスメイトに貸したり、人畜無害を演じてご機嫌を取ったり、怖い上司に自分の思ってることを言えずに調子を合わせたり、とにかく必死だった。
そうすればこっちに目が向くと信じていた。
その先に何の解決も無いとも知らずに―
ようやく見えた解決の兆し
小中高を経て、大学を経て、社会人を経て何か変わるかと期待するも毎日が良いものになることはほぼ無かった。
当たり前だ。
まったくこの生き方を変えようとしてないのだから。
すべては自分が人生をより良いものにしようとする行動力とそこへ思い至る想像力が欠如していたことに端を発していた。
人生を変えられるのか?ということすら頭に浮かばなかったことから見て、相当重症なその男は気づけば34歳になっていた。
地元のショッピングモールでアルバイトしていた俺は、就職したり独立したりして結婚した同級生たちが子供たちと廊下を歩いている姿を見かけては劣等感を抱く日々を送っていた。
「俺はここで何をしているんだろう?」
「いいのか? このままで」
社会人を数回経験するも馴染めず脱落。
バイトを転々としながら何をやっても無意味という思いに襲われ、どうして自分は生まれてきたのか?という疑問が拭えなかった。
これ以上同じような毎日を送る自分に嫌気が差し、何とか人生を変えなければ!と追い込まれ、昨年思い切って上京したのだ。
それからしばらくして、あるひとつの光明が見えた。
きっかけは知り合いの男性とその後輩の男性。
歳は少し離れているが、タメ口で仲良くしている。
そのふたりを観察していて気づいた。
ほとんど同じ行動をしていることに。
会話の内容、立てる音の大きさ、モーションなどなど。
あまりに共通点が多すぎて驚く。
もしやと思い、街行くカップルや家族連れも観察してみる。
服装、歩き方、顔つき…
やはり似ている。
結果は思った通り。
まさに"類は友を呼ぶ"。
そうするとこれまでのすべてに説明がつく。
つまり「人は同じレベルだから釣り合うんだ」と。
ということは同級生が寄ってこなかったのも、異性に突然無視されるようになったのも、向こうが自分に合わないからと遠ざけるようになったためだ。
またこれは世の中のいろんな人にも起きている。
俺に限った問題ではない。
ようやく己の視野の狭さから脱することが出来た。
もともと俺自身かなりの変人だと自負しているが、何も理由を言ってもらえずフェードアウトされるのは正直きつかった。
これが人間社会の現実かとショックを受けた。
(傷つくのがイヤで、理由を聞かない当時の自分が最も悪いのだが)
ヒトは自分と相手のレベルを無意識に判断している。
今の自分がどのレベルにいるのか知りたければ、自分と関係が続いている人たちを見ればいい。
一度関わっても続かない人とはレベルが違うということになる。
憧れている人と接しても関係が続かなければ自身がまだそのレベルに達してはないため、己を磨くためのひとつの尺度になる。
上京が俺にもたらしたものは測り知れない。
生きづらさの正体
さてこのペースで本題へと切り込んでいこう。
どうやら俺が長年抱えてきた生きづらさは"みんなに好かれたい"というところから来ているようだ。
果たしてその思い込みはどこからやって来たのか?
いつからそう思うようになったのか?
様々な思いを巡らせ、ひとつの答えに行きついた。
それは"同調圧力"なるものだ。
日本という国は同調を重んじる。
いわゆる"世間の目"がそれだろう。
もちろん良い面はある。
(人に対して迷惑をかけないためのマナーを意識する等)
ただ、問題点はすべてを同一化しようとするところ。
"この世は不公平"という前提があることを忘れてはならない。
人には誰しも必ず凸凹がある。
得意不得意、向き不向き、容姿の違いなんて当然。
でなければ不自然なのだ。
学校はオールラウンダーにしたがる。
全員を校則をしっかり守る良い子にしようと、どの教科も平均して良い点が取れる子にしようと。
親は問題のない子にしたがる。
良い学校、良い会社に行くようにと。
だがそれらは無理だ。
人は尖っていて当たり前。
いっそのこと個性を伸ばして、ぶつかり合えばいい。
なのに角が立たないようにするなんて、どれほど無謀なことか。
要領が良い人なら早くこの違和感に気づくため問題ないが、そうでない人はそれが全てと飲み込んで重荷でしかない。
(※やがて社会人になったとき、割を食って泣きを見る)
ゆえに"みんなに好かれよう"という意識を生んでしまう。
その思い込みに俺はずっと苦しめられた。
考えてみれば、思春期以降ずっと心身が不調続きだった。
アップダウンを繰り返して疲弊していくばかり。
ホントよく死ななかったよ。
それは「その考えはおかしい」ということを気づかせてくれるサインだったんだろう。
よく「環境のせいにするな!」と人は言う。
だが、その人の先天的な生き方を作り上げるのは、"親"と"学校"と"地域の人たち"といった環境だと俺は断言できる。
赤ん坊はゼロの状態で生まれるのだ。
つまりは人間社会の仕組みを何も知らない。
その新しい生命へ知識や価値観を教える者たちの思考が生き方を決定づけかねないはずだ。
人はロボットではない。
みんなキャラが違うのは、関わってきた人がみんな違うから。
もちろん周りの人たちは悪気があって言っているわけではない。
その人たちもその考えこそ正解だと思って生きてきたはず。
時代の移り変わりとともに、社会を生きてきた人たちの心の奥へ知らぬ間に刷り込まれてきたものだから何ともばつが悪い。
生きづらさを克服するためには正しい知識を学び続けていく必要がある。
幸い、先天的に身につけられた思考はのちに変えることができる。
だから俺は一度きりの人生を自分らしく楽しく生きるために都会という場所を選んだ。
地元の同級生たちと同じ生き方が出来ないことがまずひとつ。
そして作家として数多くの業界関係者に会うためには、その人たちが集まるところへどうしても行く必要があったからだ。
やがて、それに付随するように思考が変わっていったのだ。
変わる前と後を見比べられるという利点と、変わっていく過程で生じるジレンマという欠点を抱えてはいるが。
逆に都会に生まれたもののコンクリートジャングルの中で生きづらさを感じ、地方での生活を求める人もいる。
誰がどこで生きていくかはその人次第であり、決しておんなじにすることはできないのだから。
人は誰もが魅力を持っている。
ただそれを活かせる場所と活かせない場所があり、それに気づかずにずっと活かせない場所に居続けては心が大変なことになってしまう。
そこに気づいて初めて自分の人生と向きあうことができるのだ。
この世界で最も大切なのは、ひとりひとりが自分の魅力を活かせる場所を自分で探して見出すことなのだから。
"人を選ぶ"という決断
「付き合う人を選んでいい」
そう自分の心に許可を出したのは上京してからだ。
故郷を飛び出した人間に課せられるもの、それは"ひとりで生きていく"ということ。
となると、自然とこれまで使ってなかった頭を使うことになる。
・どうやって生きていこうか?
・どうしたら生きていけるか?
・どうしなきゃ生きられないか?
生き残るための知恵が身についていく。
人生設計やお金の面も考えるようになり、これが日に日に心を強くさせる。
そして皮肉にも好かれるための生き方を辞め、嫌われてもいい生き方を選ぶきっかけになった。
俺はこの人生を生きるうえで、
人生に責任を持ち、前向きな人
人の愚痴を言わない人
お金に明るい考えを持つ人
と積極的に関わるよう心がけている。
自身がそうでありたいからだ。
そうでない人たちとは軽く話すことはあっても、深く関わることはない。
"朱に交われば赤くなる"ということわざがあるように、誰かと深く関わることはその人と同じ思考のレベルになることを意味する。
ならばレベルの高い人たちと関わっていく必要がある。
俺は人間としてレベルの高いところへ行きたい。
それは青天井で、決して限界などない。
自身と合わない思考を持つ人には関われない。
つまり全員から好かれることは無理だ!と気づいたのだ。
捨てる神あれば拾う神あり。
自分を好いてくれる人もいれば、嫌う人もいる。
それでいいのだ、と。
するとあることに気づいた。
そう、かつて自分が避けられていたときのことを!
いま自分がしていることはかつて相手がしていたことと同じ。
この事実に驚きを隠せなかった。
これまで自分側の視点だけしか見ておらず被害者意識を抱いた己の未熟さ、そして人間社会の難しさを思い知った。
反面、相手にされなかったのは自分の向かう方向はそちらではなかったと気づくことになった。
物事には理由と原因がある。
だがそれらを細部まで咀嚼し、丁寧に教えてくれる人はほとんどいない。
早い段階でそういう人に会えた人は実に運が良いだろう。
みんながみんな忠告せず、「自分で察しろ」というのがこの社会だから。
エピローグ
現在、俺はこれまで疑問だった謎をひとつずつ解いている途中。
完全に克服したかと問われればまだまだで、かなりの時間を要するだろう。
何しろ「他人より成長が10年遅い男」なのだから。
生きづらさという謎の答えに辿り着くまで、何度も自分を恨んでは殺そうとした頃が懐かしい。
(だが実際そんな勇気はなく、そういう行動は一切取らなかったけど)
ずっと違和感を覚えながら生きてきたこの人生。
この世に漂う疑問をひとつひとつ向き合っていく必要がある。
黒スダの黒歴史はまだまだこんなもんじゃない。
学校教育の後に待っていた社会人生活。
そこでも俺はたくさん過ちをやらかしてきた。
次回は「社会人とお金」をテーマに毒をぶちまけてやる。
おたのしみに。
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