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短編小説 蝶を封じる

「本当は思春期は、何もかも打ち壊す破壊の時期なんだ。蝶の完全変態みたいにさ」と古都は言う。
青い蝶をめぐる破壊的な青春をわたしは過ごした。突き錐の奴隷契約を交わした古都と。


《あなたは突き錐を取り,それをその者の耳に刺して戸口のところに通さねばならない。こうしてその者は定めのない時まであなたの奴隷となるのである》──申命記一五章一七節より


I


目の前をふらりと横切ったのは、ちいさな青い蝶だった。

はっとしたわたしは反射的にハンドルを大きく切る。乗っていた通学用自転車はバランスを崩し、奇妙な角度に傾いた。
空中を浮遊するような感覚の最中、頼りなく舞う蝶の綺麗な濃い青と、複雑な筋模様だけ何故だか網膜にしみわたるように残った。

わたしの記憶はたぶんその後一旦途切れている。どれほど経った頃か、誰かが背中に触れる感触に我に返った。
「大丈夫? 」
すぐ近くに他人の顔がある。しばらく茫然とその顔を見つめた後、ああクラスメートの渡辺古都わたなべことだ──と気がついた。
渡辺古都。彼女に就いてはほとんど知らない。同じ道を歩いて下校していたらしい古都はクラス内では大人しく目立たない印象の子で、まともに顔を見たのも、話をしたのも初めてだった。
「──わたし、転んだの? 」
頭がうまく働かなくて、深く考えることもせずにそう尋ねると、しゃがんでわたしと向き合っていた彼女は訝しげに目を細めた。乳液を思わせる半透明の白い頰に薄いそばかすが透けている。
「転んだし、傷も結構酷いよ。派手に擦りむけてる」
黒いロブの髪がアスファルトに付くのも構わず、古都は座り込んでいるわたしの脚を覗き込む。制服のスカートとショートソックスにしか覆われていなかったそこは、広範囲に血が滲んで見るからに痛々しい様相だった。今までは何も感じなかったのに認識した途端に耐え難くなってくるのだから不思議だ。
古都は不意に立ち上がって、傍に転がっているわたしの自転車を歩道の端へ寄せた。その時点になってわたしはようやっと自分の状況──車道のきわに座り込んでいる──に気が付き慌てふためいた。と、目の前に白い腕が伸びてきてわたしを歩道に引き寄せる。すぐ後ろでヒュンと音を立てて車が掠め走る音がした。
霜田しもださん」
古都がわたしを呼ぶ声が新鮮だった。
「歩ける? 」
もう一度差し出された右腕の、内側をはう静脈が先程見た青い蝶の筋張った模様のようで思わず見入った。



「学校、休むかと思った」
翌朝、昇降口で靴を履き替えていると古都が肩に軽く触れ声を掛けてきた。
「見た目、かなり目立つけど大丈夫なの」
彼女はわたしの脚に巻かれた包帯を凝視する。
「見た目だけ」
擦過傷が広範なのでその全てに包帯を巻かなくてはならず、スカートの裾から見える右脚はほとんど素肌が見えなかった。
「そう」
心配しているんだかいないんだか分からないような単調さで返した彼女は一瞬目を伏せる。肌は白いのに、切り揃えた前髪も、そのすぐ下の眉も、それから睫毛もみんな黒々して濃くて密だ。そのせいで眉と睫毛に挟まれた、まるく膨らんだ瞼がやけに白く映った。
「霜田さん、気付いてなかったと思うけど」
死ぬとこだったよ、自身の頰のような淡白さで古都は付け加えた。
「え? 」
「霜田さんが倒れたとき、すぐ後ろにトラックが走ってたんだよ。本当にきわどいところでトラックが避けてった。あのとき──」
淡々と言いかけて、古都は口を噤んだ。
「死んでたんだ」
「かもしれなかったって話」
おとなしそうな外見に反して、意外とストレートな物言いをする。
「なんであんな転び方したの」
「え、と」
瞬間わたしの頭の中であの青色が舞う。
「蝶、が」
そう、蝶だ。あの青い蝶が目の前に唐突に現れたりしたから。だから咄嗟に避けようとしてしまって。
「蝶? 」
古都は変わらぬトーンで微かに首を傾げた。頓狂な返答をしたわたしを茶化しもしない。いつもつるんでいる子たちの大袈裟な反応とずいぶんと違うので少し調子が狂う。あの子たちは何事も笑い事にして、深く考えないようにすることによって毎日を騙し騙し楽しげに過ごそうとしているのを、わたしは知っている。仕方ないのだ。そういう年頃なのだ。
じゃあ──古都が何事か続けようとした言葉は突然中断された。
あかり! 」
大きく叫んでわたしの腕にしがみついてきたのは、同じグループの沙奈さなだった。首に触れる猫っ毛がこそばゆい。
「どうしたそれ」
沙奈は包帯を見て大笑いする。彼女の相手をしている間にいつのまにか古都はいなくなっていた。

沙奈と一緒に教室に入ると、案の定いつものグループから怪我のことで騒がれて、心配されて、笑われた。わたしもそれを適当に笑いの種にする。女子校のこういう気怠くて緊張感のない空気はそれなりに楽だ。その不文律に従いさえすれば簡単に周りに受け入れられる。普段私にべったりな沙奈だけはなぜだか拗ねたような不機嫌な顔を見せたけれどわたしは上の空で、周りの騒ぎも沙奈の不機嫌もどうでも良かった。
頭の中で古都の言葉がくるくる回る。
──死ぬところだったよ。
──あのとき。
あのとき、何だろう。
あのときわたしが死ぬかと思った? もし死んでいたとしたら、どうしようかと思った?  物騒な物言いをした古都。その飄々とした空気感がわたしの中でずっと焼きついて離れない。その日の間じゅう、今までまったく注目していなかった古都を、絶えず目で追っていた。
見ていて初めて分かったことだが、古都はどこのグループにも属していない。それはちょっとした驚きだった。それがどんなに思春期の少女にとって異質なことかわたしたちは身を以て知っている。かといって浮いているとかいじめられているといった様子ではなく、とっつきにくい孤高さを纏っているわけでもない。誰とでも適度に喋るし、上手くクラスの空気に紛れ込み、昼食時も誰かしらと言葉を交わす。古都の存在感を今まで認識出来なかった要因はこれだったかと得心する。ただフラットに何処にも属さない存在なのだ。
古都はどこまでも自然体で透明で、そしてまっさらに自由に見えた。

放課後、自転車のことを思い出した。昨日は結局転倒の後親に迎えに来てもらって、自転車は古都が学校の駐輪場まで運んでくれたのだ。彼女に訊くと、ああ、と頷いた。停めた場所まで案内してくれるという。
「カゴがね、ちょっと歪んじゃってた。たぶん前輪も。乗り続けるのは危ないと思う。電車で来たんでしょ。帰りもそうすれば? 」
停めたわたしの自転車を前に、古都はカゴを触ったり前輪を浮かし回したりして単調な声で説明する。
「そうする」
古都はそうしなね、と言った後朝のようにあっさり去ろうとした。
「どこ行くの? 」
思わず声を掛けたのはどうしてだったか。今日一日の古都の振る舞いの不思議さを観察していたせいか。古都は背中越しに振り返って控えめに眉を上げた。
「来る? 」
質問の答えになっていない、と思いながらも言われるがままにつられて頷いてしまっていた。強引さはかけらも無いのに、何故だか気がつくとふわふわと古都に素直に従ってしまう。
着いたのは今まで行ったことのない、薄暗い教室だった。
「部室」
美術部、必要最低限な単語だけを発するのが古都らしい。私たちのほか誰もいない室内をてきぱきと動いて何やら絵を描くための準備を整える。古都が運んできたキャンバスはやけに大きかった。
「文化祭が済んで、共同のステージバックが終わったからやっと個人の絵を進められるんだ。だから進捗は遅いよ」
無造作にイーゼルに立て掛けられたそれは、油彩のようだった。なにやら薄い膜のようなものが幾重にも重ねられていて、中心にいくほど混沌としている。
最初、それが何なのか分からなかった。
それをどういうものとして位置付ければいいのかも分からなかった。
けれど、どうしてこんなにも衝撃を覚えたのだろう。古都の絵は、他の人の絵とどこが違うのだろう。
「──美大とか、目指してんの? 」
「え? 」
古都は綺麗なソプラノでからからと笑った。
「なんで。目指してないよ」
「こんなにすごい絵を描くのに? 」
「すごくないって。すごいなんて言われたこと、一度もないよ」
嘘でしょう、と思わず漏れて、それを聞いた古都は再び可笑しそうに笑った。
わたしは人知れず戦慄を感じていた。古都はなんでもないような扱いをするけれど、私の内面は震えるようだった。こんな風に感じたこと、今までにない。こんなにも途方にくれて、私の内容物全てをぐるぐる混ぜられて思わずうずくまるような。それでも何度でも見たくなるような。
これを目の前にいる同い年の少女が描いたのだ。
「さなぎ」
これさなぎだよ、古都は前後逆に椅子に腰掛けて、背もたれに肘を乗せる。
「何の」
「わたし? 」
語尾が何故か疑問形だ。
思春期はさなぎみたいだなって思ってさ、描いてみたのと古都は肘の上に顔をうずめた。
「大人になる一歩手前ってこと? 」
「そうだけど、表現したいことはもっとちがくて」
霜田さんはさ、蝶はどうやってさなぎから成虫になるか知ってる、との唐突な問いにわたしは言葉に詰まってしまった。
わたし、反抗期なの、反発してんの、と古都は構わず続ける。
「めんどくさい奴なの」
何を言ってるんだろうと思う。どうして古都は突然こんな話を始めるのだろう。
「思春期はこれからの人生の土台を作る時期とか言われるけど、わたしはそんな綺麗事信じない。本当は思春期は、何もかも打ち壊す破壊の時期なんだ」
「破壊? 」
破壊だよ、と珍しく攻撃性のある顔でこちらを見る。
「蝶の完全変態はさ、さなぎの時ぐちゃぐちゃのどろどろになって、もうなんの形もない液体になって、そのくせ何事もなかった涼しい顔で、完成された綺麗な成虫になって出てくるんだよ」
そのさなぎみたいに、わたし達は今の時期一旦すっかり破壊されるの、などと平気で言う。
「だから本当のわたしは今どろどろのぐちゃぐちゃ。──みたいな事かな、表現したいのは」
──霜田さん、死ぬところだったよ。
わたしはなんとなく今朝の古都が言わんとしていた意味を悟り、阿呆のようにしばらくぽかんと古都とその背後にある得体の知れない絵を眺めた。
「馬鹿みたい」
そう誤魔化したら、古都も笑った。
なんなの。なんなの。
泣きたいのとも違う。ため息が出るのとも違う。
ただそこにある訳のわからない何かに強引に引っ張られて、何かを耐えるような、噛みしめるような。痛みのような。 
そんなものがそこにある。
古都の中にある。
彼女の、飄々としているように見えて本当は何かとてつもない熱を秘めているさまが垣間見えた気がして、見えたらもうどうしようもなかった。

どうしようもなくなった。



脚の傷が癒える頃には、わたしと古都はすっかり打ち解けていた。
何か特別なことをするでもなかったけれど、共に時間を過ごし、話をする機会が自然と多くなった。気がつけば今までのグループとは随分距離が開いてしまっていたけれど、却って解放された心地だった。わたしは日々、ただ古都と自分の世界にいた。見慣れた薄い景色みたいにどうでも良かった古都は、どうにか話をしたい古都になった。
放課後になると、古都は決まって部室であのさなぎの絵を描き進める。いつのまにか美術部員として馴染んでしまったわたしはいつもそこに居てその進捗を眺めていた。
古都は執拗に自分の描くさなぎに何枚も薄く複雑な膜を重ねていた。あんなに覆われて、あのさなぎ──あの古都は無事に羽化出来るのだろうか。

一年はあっという間に過ぎ去り、夏に差し掛かろうとしていた。
古都と過ごす日々は幸せであるのと同時に常に恐ろしくもあった。
この関係は──この場所の、この環境の、この年齢でしか成り立たない。
こわれる期限は一年後と明確に決まっている。
どうしてこんなにも難しいのだろう。不変は難しいのだろう。
わたしには足りない。
わたしは、もっと、
「いこ」
放課後のステージバック製作を途中で切り上げて古都はいかにも身軽そうに立ち上がった。今年も美術部は文化祭でステージバックを披露する予定なのだ。古都が立ち上がった途端にわたしの目の前にぬめやかな肌をした脚が現れる。どういうわけか直視出来ず、目を逸らして古都に倣って立ち上がる。貧血のせいか、くらくらと立ち眩む。
わたしには足りない。
わたしは時間が足りない。
膨大な時間を詰め込んでおける場所があるのなら、わたしはもっと、もっと、ギュウギュウに詰め込むのに。そしてわたしの人生分めいっぱい、古都との特になんでもない十七歳の時間で満たしてしまうのに。
そう思ったら不意に涙が出そうになった。
何だろう、これは何だろう。
嬉しいのに、嬉しいだけではないような、幸せなのに、幸せだけではないようなこの感じ。言葉では決して説明出来ないこの感じ。
古都と別れて校舎を出ようとすると、灯、と誰かに声を掛けられた。振り返ると沙奈だった。最近付き合い悪いじゃんと沙奈は粘着質な笑い方をする。
「何、いつの間に美術部員になってんの」
「駄目? 」
「なにその言い方」
面倒だなと思った。古都と近しくなってから、ずっと彼女が不満そうにわたしを睨んでいたのには気が付いていた。知っていて無視をした。
「灯ってレズなの」
私の言い方が癇に障ったのか、沙奈は焚き付けるように言い放つ。一瞬で古都との関係を揶揄しているのだと知れる。
「うける」
「ちがう」
思わずかっとなって言い返したけれど、それがどれ程信憑性のある返答と受け止められるだろう。なんで沙奈にそんな事を干渉されなければならないのだろう。
「灯はさあ──」
何事か続けようとする沙奈を無視して、わたしは躊躇なく踵を返し立ち去った。

帰りのすかすかの電車に揺られていたら、泣けて来た。
──灯ってレズなの。
ちがうのに。
むしろ逆なのに。
わたしは古都と付き合いたいなんて少しも思わない。
ただ、一緒に居て。わたしと一緒にいない時は孤独に寂しく過ごしていて。
‪だって、あんなものを見せられたら、たまらない。あの古都のさなぎの、剥き出しの内側を見せられてしまったら。‬
‪わたしは開いてしまう。古都にだけ、自分の液状を見られてしまう。‬

女の子は性的な目でわたしを見ないから。わたしをそのままわたしとして見てくれるから。だから手放しでお互いを開放できるのに。
わたしたちはおんなのこ。不安定なおんなのこだ。
だからこそ眩しい。愛しい。儚い。まだ大人ではない、女ではない。飾りっ気なさが受け容れられるぎりぎりのさなぎの年齢。
そうしたら、許して。私たちの不安定と幼さを許して。

涙を拭って目を上げると、視界の隅に青い一片が舞うのが映った。舞っていたのは自転車の私を倒れさせたのと同じ種のいつかの蝶だった。何かのはずみか車内に紛れ入ってしまったらしい。無防備な舞い方をしていた蝶はふいと腕を伸ばして包むと私の手の中に難なく収まった。てのひらに小さな蝶を閉じ込める。美しくたっとい存在。蝶は私の手の中で慌てもがいて私の手をこそばゆくする。愛しくてこわい。
私はふわりと空間を作っていた両の手を静かにピタリと隙なく合わせた。



文化祭当日、ステージバックと共に美術部員の作品も展示された。古都のあのさなぎの絵も完成して前日から並べられた。
二人で見に行こうと美術室に向かうと、思った以上に人だかりがしていて驚く。
不思議に思って中に入ったとき、騒ぎの原因を知った。
古都の絵が破壊されていた。
絵の中のさなぎは混沌とした液状のさなぎのまま、ただ傷つけられ破られていた。
二人で茫然としていると、不意に背後で抑えたくすくす笑いが聞こえて足音と共に去っていく。 わたしは思い至った。
──沙奈だ。
なんて幼稚な嫌がらせなんだろう。なんて独りよがりで盲目的な。
でも、沙奈だけを責めて怒りをぶつける気にはなれなかった。わたしは多分、あの子の感情に無頓着だった。あのとき沙奈が何を思っていたかなんて知ろうとも思わなかった。きっとわたしも悪かった。
「あんなのただの絵だよ」
何かを察したように、なんでも無いように古都は言ってわたしを慰める。
「そうじゃないでしょ。そういうことじゃ、ないでしょ」
どうして慰めるのがわたしじゃなくて古都なんだろう。わたしはどうして泣きそうになるんだろう。
「──でも、もうつまんないからここ抜けよっか」
古都はどこか吹っ切れたように笑って、わたしの制服の袖を引っ張った。

校門を抜けて、二人で最寄駅からこの街一番の繁華街へ向かった。駅ビル内は華やかで目にちかちかと刺激を与える。
「ピアス開けない? 」
ピアス売り場を覗いていた時、古都は唐突な提案をする。
「思いっきり派手で、でもセンスがあるやつを付けよ。自分のためだけに、選ぶんだよ。人が見たらどう思うかなんてくだらない事、考えちゃ駄目だよ」
そのわくわくするような提案に胸がはずんだ。自分のためだけに選ぶピアス。迷って迷って選んだのは、細いワイヤーの先で揺れる、あの蝶のような青さを持った大きなガラスの三角形だ。古都も同じものを選んだので、角と角を付き合わせると蝶の形になる。
戻った駅のホームで古都がおもむろにポケットから安全ピンを取り出した。消毒もせずに躊躇なくそれぞれ相手の耳に新しい穴を開ける。
古都がぽすりと私の耳に開けてくれたばかりのピアス穴は、開けた瞬間熱を持ったような違和感を与えた。古都が私を傷付け、私が古都を傷付けたお揃いの痛み。
開いたばかりの穴に、ファーストピアスに全然相応しくない先ほど買った揺れるピアスをお互いの耳に刺し通す。ピアスで埋めてしまえばもう、傷なんてないのとおなじ。血液も体液も滲み出ない。古都のひらひらの薄い皮膚の下に透けて見える毛細血管はなぜだか見てはいけないもののようにエロティックだった。
ストライプのブラウスとジャンパースカートという冴えない制服に、そのピアスは酷く不似合いなような、けれどそれが逆にこなれたお洒落のような、不思議なバランスを作って映えた。
私たちはさなぎ。この耳のピアス穴から化膿してどろどろぐちゃぐちゃにすっかり溶けて、それから思いもよらない程美しい蝶になる。
溶けたそこからどうやってあの清く穢れない青色が生み出されるのだろうか。今古都を包むあのイノセントな透明膜は、さなぎの殻だろうか。
古都が実際美しいのか、私のフィルターが古都を美化しているのか、もう分からない。



再び電車に乗った。どこまでも乗って辿り着いた終点は、観光地になっている見晴らしの良い高台だった。あたりはまだ充分明るい。
降りてみると駅からさほど離れていない場所がもう際どい崖になっていて、全てがどうでも良くなるような清々しい眺めが拡がっていた。古都は躊躇もなくその崖にどんどん歩を進めてゆく。
「あぶないよ」
私の言葉に構わず古都は息だけ漏らす笑い方をして、そのきわにぞんざいに立った。
なんでそんな所に平気で立つんだろう。わたしが見ているというのに。
あんまり無防備な古都。薄い背中に、細い頸部。卵型の頭部に、その裏にあるふっくりと膨らんだ眼球を包み込む白い瞼と。
‪ねえ、わたしたちはこんなに命にあふれています。あふれています。‬
──わたし、反抗期なの。反発してんの。
古都は時折ひどく鋭い攻撃性を見せる。
古都は何に反抗してるの。何に反発してるの。あなたのさなぎはいつ破れるの。耳の傷がまだわたしを包むように痛い。

不意に、ピアスを揺らして古都がこちらを振り返る。ブラウスの襟ぐりから覗く青い静脈。青い蝶の筋模様。あのときの逃れられなかった蝶。
蝶にどれほどの感情があるものか知らないけれど、あの電車内を彷徨っていた蝶は私に閉じ込められて、あんなふうに暴れて、本当は怖かったのかも知れない。
「ここから一歩先に行こうとするだけで、落ちるね」
古都はくすくすと、葉擦れのように笑う。 
「古都」
私は自分の欲求のままに古都のふたつの眼球をふっくりさせた掌で後ろからそっと覆った。
古都は抵抗しなかった。


ただ、なにも塗っていない、そのしっとりと弾力のある睫毛だけがはねのように瞬いて、かすかに私から逃れようとしていた。





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