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書いた覚えのない文章


スマートフォンのメモアプリに、書いた覚えのない文章を発見した。


「鍵」

一つの鍵が 手に入ると
たちまち扉はひらかれる
硬く閉ざされた内部の隅々まで
明暗くっきりと見渡せて

人の性格も
謎めいた行動も
物と物との関係も
複雑にからまりあった事件も
なぜ なにゆえ かく在ったか
どうなろうとしていたか
どうなろうとしているか
あっけないほど すとん と胸に落ちる

ちっぽけだが
それなくしてはひらかない黄金の鍵
人がそれを見つけ出し
きれいに解明してみせてくれたとき
ああ と呻く
私も行ったのだその鍵のありかの近くまで
もっと落ちついて ゆっくり佇んでいたら
探し出せたにちがいない
鍵にすれば
出会いを求めて
身をよじっていたのかもしれないのに

木の枝に無造作にぶらさがり
土の奥深くで燐光を発しおお
虫くいの文献 聞き流した語尾に内包され
海の底で腐蝕せず
渡り鳥の指標になってきらめき
束になって空中を ちゃりりんと飛んでいたり

生きいそぎ 死にいそぐひとびとの群れ
見る人が見たら
この世はまだ
あまたの鍵のひびきあい
ふかぶかとした息づかいで
燦然と輝いてみえるだろう

茨城のり子/「鍵」

『人の心は深い井戸の底にある水のよう。慎重につるべを落としてゆっくり汲みあげる者だけが、その人の本当の心の奥や真の動機を知ることができる。』

彼女の詩を読んでこの名言を思い出しました。
どうしてあの人はこんな行動をするのだろう、どうしてあんなことを言うのだろう。他人の言動をそんな風に思うことがありますが、それにはちゃんと理由があって、その本当の意味を理解したときにはっとするのです。

“人の性格も
謎めいた行動も
物と物との関係も
複雑にからまりあった事件も
なぜ なにゆえ かく在ったか
どうなろうとしていたか
どうなろうとしているか
あっけないほど すとん と胸に落ちる”

茨城のり子さんはその事象をさらりと言葉にして私の目の前に差し出してくれたような気がしました。「どうして」を解決して解明できるきっかけのことを彼女は「鍵」と表現していてなるほどと感じさせられます。

大切なのは、人の謎めいた行動を非難するのではなく、その動機を探ろうと努力すること。傷付いた自尊心や過去のトラウマ、幼少期の経験まで考慮すること。そのようにしてその人の本当の姿が分かった時、世界の深みは増し、色彩豊かに、見つけてくれと叫ばんばかりに揺れる鍵のように輝いて見えるのです。
私も常にそのような思考で他人と、あるいは自分とも関わっていきたいと思わされました。




思っていることはまるきり私。茨城のり子さんの詩に触発されて思い出した名言も私と同じだ。読むと、そうそうこれこれ、こういう事を言いたかった!という気持ちになる。でも、文章が私らしくない。
私は琴線に触れた文章を何でもかんでも取り込んでメモ帳にコピペして溜める癖があるから、これももしかしたらその類なのかも知れない。そう思って念のためネットで検索をかけてみたが、特にヒットするようなものはなかった。
私はこれを自分の書いた文章なのだと結論づけることにした。学生時代の読書感想文のつもりで、よそゆきに書いたのだろうか。


中学生の頃から、自分の思ったほんの小さな気持ちを手書きのノートに記してきた。ノートは順調に積み重なり、その習慣は社会人になっても続いた。今だって続いている。ツールがアナログからデジタルに変わっただけで。
私はそうしないと耐えられなかった。気持ちをとことんじっくり聴いて、深い話し合いのできる相手がいなかったから。

人の気持ちは目に見えないけれど、方法次第では可視化することができる。不可視の空気が水中では可視化するのと同じように。文章は、気持ちの具体的な可視化だと思う(今思いついたように言ったけれど、これは十六歳だった私が「とても大きな発見」として嬉々としてノートに記していた言葉だ)。
私は淋しかったからたくさん文章を書いてきた。そういうものが作品や芸術に化けて人々に消費されるって、不思議だなと思う。「たくさん素晴らしい作品を残してください」って、人によると「たくさん苦しんで、その結晶を私たちに提供してください」の意訳のように感じて、芸術家ってすごい立場だなと思う。


見覚えのない文章の最初の引用にもあったけれど、茨城のり子さんの詩ははっとさせられるものが多い。大人になればなるほど忘れたくないと強く思う種類のものが、とても絶妙に表現させられている。
純粋でいること。簡単に決めつけないこと。孤独の希少さ。傷つくのは必ずしも悪いことではないこと。
生活の端々の隙間に思い出し、深い人になりたいなと思う。


書いた覚えのない文章を発見して、ひと通りそんなことを思いなおした。

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