AMC・ルノー・アライアンス
1980年頃、当時のアメリカの情報というと、日本の自動車メーカーへの「恨み部」ばかりが伝わってきたものだ。だったら自分達で燃費の良い小型車を作ればいいと思ったものだが、実際にはアメリカの自動車メーカーはオイルショック後のドイツ車、日本車の攻勢に手をこまねいていた訳では無い。少なくともそれらに対抗する策として小型車を投入してはいたのである。
ドル/円のレートが今と違いすぎるが。
GMはシボレー・シェベット(オペルカデットC、初代いすゞジェミニ等の双子車)、フォードは欧州フォードのそれ(3代目)をベースにしたフォード・エスコート、クライスラーはダッジ・オムニ、プリムス・ホライゾンを販売していた。
アメリカの小型車、あまり力を入れていないのでバリエーションがなかったとも聞いた事がある。
シボレー・シェベットは出始めの頃は簡素な部分も評価されたが、次第に陳腐となっていった。クーペとかオシャレなモデルもなかったらしい。このクルマも興味深いので、項を改めて書きたい。
悪い意味で色々あったフォード・ピントの後継が欧州フォードのエスコートだったというのは、仕方ない話かなと思う。
FF車であるオムニ/ホライゾンは欧州クライスラー(シムカ等)との共同開発だが、実際は北米版はVWゴルフのエンジンを搭載した別物だという。
欧州部門はこのあと手放される事になるので、共同開発は危ない所であったかもしれない。
デカすぎて潰せないと言われたクライスラーの中では売れて、経営破綻の危機から救ったらしい。
クライスラーはダッジ/プリムスブランドで「コルト」も販売していたが、これは歴代三菱車で、この頃には三菱ミラージュそのものだった。
同じクラスの日本車はというと、4代目カローラ、2代目シビック、B310からB11サニーという時代、ここにもう1つ名乗りを上げたクルマがある。
アメリカで小型車を販売していたAMCのAMCアライアンスである。1982年から1987年まで販売された。AMC、グレムリンとかペーサーとか、個性的なクルマを作っていた。
そしてそのアライアンスだが、70%以上アメリカ製部品で構成されていたので「アメリカ車」とされるが、少しひねりがあった。元はフランス、ルノーの「ルノー9」がベースになっていた。ルノーのエンブレムもそのままで、「ルノー・アライアンス」と呼ばれた。
資金難だったAMCはルノーに融資を求めた。ルノーはAMCの経営権と自社のクルマをアメリカで販売する権利を得た。
このルノー9、以前のフランス車と違い、一見当時の日本車にも見える程の、無国籍な感じだった。
この時期のアメリカの小型車にない3ボックスで、アメリカンな大型バンパーを装着し、2ドアと4ドア、5人乗り、1397cc・65馬力の電子制御エンジン搭載、2ドアモデルは5595ドルからというものであった。
販売当初はかなり売れたらしい。そして作りも良くて評判も良かったようだ。
ところが状況は一変する。アメリカの石油価格が元に戻って落ち着いたのだった。
小型車である必要のないユーザーが離れた。
こうなると「走り」の方が気になる。排気ガス規準の関係で非力になっていたエンジンは、エアコン装備でさらにパワーに不足が感じられた。
1985年、1721cc・79馬力モデルが追加、スポーティなコンバーチブルモデルも追加。
しかしこの頃には耐久性がユーザーの思っていた程でない事や、品質問題が浮かび上がってくる。
本国でのルノーの不振、カリフォルニア州でのGMとトヨタの合弁事業、テネシー州での日産の組み立てライン稼働(サニーがベースのセントラがまず生産された)等、AMCアライアンスにとってのマイナス要素が重なった。
AMCアライアンスの売り上げは落ちこんでいった。
1987年にはGTAという2000cc・96馬力のグレードが追加されるも、ルノーはAMCの株式をクライスラーに売却する事で、両者が合意する。
クライスラーはしばらくルノーベースのクルマを自社系列のブランドで販売する事となるが、アライアンスは必要とされていなかった。
元AMCのクルマはイーグルというブランドで販売されたが、アライアンスの後継である「イーグル・ビスタ」は2代目三菱ランサーそのものだった。
やがて「イーグル・サミット」に統合されるも、こちらは3代目三菱ミラージュそのものだった。
1999年、イーグルブランドそのものも消滅してしまった。