「知らないことへの嫌悪感」を理解すると生きやすくなっていく気がする
無知から来る嫌悪感・恐怖感
人間って、「知らないこと」に対して自然と嫌悪感を覚えてしまう生き物なんだと思います。むしろ「自分がわからないことは怖いもの・危険なもの」と判断して排除できるからこそ、身体能力としては野生動物に劣る人間が子孫を残せたという側面も考えられます。
歴史を遡れば「魔女狩り」とか、現代でも残る「人種差別」とか、「異質なものを排除することで安全性・正当性・優位性を確保する」というのは人間の性なんでしょうね。
赤ちゃんは知らない人見たら泣いちゃったり、歳を取ったら新しい技術やサービスに付いていこうとしなくなっちゃったり。私も「TikTokはなんかよくわからんから嫌い」って未だに思ってる節があります。
「知ること」の快感
その一方で、「知ること」や「知っていること」は快感をもたらします。勉強して「わからなかったことが理解できた瞬間」ってとてもスッキリするし、キャバクラで雑学披露してキャバ嬢に「すご~い」って褒められたら気持ち良いし。
だけど対象物によっては「簡単には理解できないこと」も出てくるから、それに対して嫌悪感を抱いてしまうのは仕方ないことなんだと思います。
コムドットが嫌い
私はYouTuberのコムドットをほとんど見たことないんですけど、ニュースやツイッターで流れて来る内容で「嫌い」という印象を抱いています。
これって、「コムドットがよくわからん」から来てる嫌悪感だと思うんですよね。彼らは多分時代の先を行き過ぎて、私なんかじゃ簡単に理解できないことをやってるから嫌いなんだと思う。
殺害予告に対しては、普通に警察と連携して粛々と対応するのが模倣犯・愉快犯を生まないためにも必要な対処法だと思うんですけど、なぜか「殺害予告やめてください!!!」って動画を挙げてるらしい。
登録者の多い大物ユーチューバー様なんだから、センセーショナルさだけで中身のないことを発信してないで、他の多くのYouTuberがそうしているように、ファンの子を喜ばせる動画をアップしたらいいのに、「彼らがそうしない」という行動が理解できないから、私は彼らの動画をほとんど見たことが無いのに嫌いだと感じているんでしょうね。
彼らの言動のインセンティブを理解できたとき、あるいはビジュアルやらファッションやら、彼らの別の側面に対して好印象を抱いたときは、好きになるんだと考えています。
ちょんまげ小僧は好き
コムドットが嫌いな一方で、ちょんまげ小僧は例の挨拶動画をちょっと見たぐらいですが、普通に好きです。
「ひき肉です!」って手を広げる謎のポーズの意図を理解しているわけじゃないですが、「自分が中学生の時に面白がっていた謎の身内ネタ」的な雰囲気については理解できます。
多くの人は「自分たちにもこんな時代あったな~」って昔懐かしさから親しみを感じて、その結果彼らに対しての印象もプラスになってるんだと思います。
「ひき肉です!(腕ぱか~ん)」の中に、自分の経験・記憶と重なる部分を見出した結果が「コムドットはよくわからんから嫌いだけど、ちょんまげ小僧はよくわからんけど好き」ってことなんだと思うわ。
教えることの快感
「知識が快感に繋がる」的な側面について書いてて思い出したのは、先日見かけたこのツイート。
これは自分自身を省みる話になるけど、VALORANTで味方のプレーに対して「今のはこうした方が良かったね」的なのを悪気無く言っちゃうのは、それが相手のためになると思って言ってるというよりは、自分がそれを指摘する・教えることで気持ちよくなってるという部分が大きいんだなと気づいた。
言われた方だって「今のはこうした方がよかったな~」とか絶対考えてて、「それぐらいわかってるよ」と思われてしまうことを頭でわかってても、言ってしまうことがある。
そうした自分の言動を振り返ると、配信者への指示コメとか、唐突に自分語りが起こるヤフコメとかを見ると「きっつwwww」って小馬鹿にするように見てたけど、自分も同質のことやっちゃってるじゃんって気づいて、またひとつ「理解したこと」が増えた上で、嫌悪感を抱く対象も減るんだと思う。
無知の知
やはり哲学の父は偉大過ぎた。自分自身が何も知らない無知な存在だとわかると、「なんとなく嫌いだった」ものの理由がわかるし、「理解できそうな余地のある嫌悪」と、「本質的に危険性があって忌避すべき嫌悪」も区別できて、生きやすくなったような気がしたんですよね。
そしてそう考えたことをnoteにまとめることは、「私はこんな考えに至ったわけで、とっても知的じゃない?」とアピールしたい承認欲求によるものなんでしょうね。
よし、今まで毛嫌いしてたけどコムドット観てみるか。