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信じる者は、
人を信じる、という行為は賭けだと思う。
信じるかどうかは大概、一方の勝手であって
何か相手と契約を交わすものではない。
だから裏切られるかもしれない、というリスクも当然
勝手に負うことになる。
・・・そう思っていた。
相手に「信じていたのに」なんて言葉は
八つ当たりではないか、なんてすら思っていた。
だから私は、
相手ではなく自分を信じることにしていた。
「この人なら、自分を解ってくれる」
そう感じたから・・・いや、そう感じた自分を信じたから
自分を曝け出した。
だけどそれは全くの幻想で、
自分の勘は大きく外れていたことに気付いた時には遅かった。
壁を取り去り剥き出しにしていた無防備な心は、
無残にもズタズタに傷つき引き裂かれ、なんなら腐敗寸前だ。
相手を信じた自分に腹が立っていた。
それと同時に、
自分を信じさせた相手にもやはり、怒りを感じていた。
そんな自分が情けなかった。
何もない相手に心は動かないし、
信じようなんてリスクのある行為をわざわざする程
自分は馬鹿ではないのだと、そう思うことで自分を保とうとしている私は
「自分を信じた」なんて言ってもそれは結局、他人を信じたことに変わりないことを認めたくないのかもしれない。
信じる者は強い。
でもそれを失った瞬間、途端に弱くなる。
人の感情というのは綺麗ごとでは済まない。
人と人との間で発生する心情は、一人だけのものではないのだから
「信じた者が馬鹿をみる」なんてことはやはり間違ってる。
「救われる」そんな結果を得るにも、一人ではできない。
信じる誰かがいて成立する。
私はこんなに傷ついてもまた、誰かを信じられるのだろうか。
そんな腐敗した心は、分厚い頑丈な壁に囲まれた地下格納庫に厳重に保管すれば崩壊は免れるとしても、復活なんて到底不可能。
時間が経てば、なんていうのは回復薬が塗れる傷の場合であって
腐敗しているものに効果はない。
再生させるには、心を生みなおすしかない。
物凄く体力がいる。
信じる、という行為の代償は凄まじい。
だからこそ、簡単にできないことで
それでも信じたのは、それだけ・・・だってことだけでも
相手に知って欲しい。
たとえ「勝手に」だと思われたのだとしても。