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短編小説『いい歯のために─人生の宝物を守る小さな光─』

まえがき

「歯は一生の宝物」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。子どもの頃は歯がぐらつくたびに新しい歯が生えてくると思い、大人になれば虫歯を削れば済むものだと思っていたかもしれません。しかし、歯はただの道具ではありません。それは噛む、話す、笑うといった日常を支える存在であり、時に人間関係をも左右する大切な要素でもあります。

この物語は、歯の価値を知り、守ることの大切さに気づいた一人の女性の人生を描いたものです。彼女が祖母から受け継いだ「いい歯のために」という言葉を胸に、多くの人々の歯を守るために奮闘する姿は、読者にとっても新しい気づきを与えるでしょう。

歯の健康をただの「ケア」ではなく、人生を豊かにする「哲学」として捉え直すきっかけとなることを願って。この物語があなた自身の歯と向き合う時間を作り出し、小さな習慣の変化を促すことを祈っています。

──人生の宝物を守る旅へ、ようこそ。


「歯は、人生の宝物なのよ」

祖母がそう言ったのは、私が小学校四年生のときだった。リンゴをかじるたびに前歯がぐらついて痛むのを、祖母が指先でそっと触れながら心配そうに見つめていたことを覚えている。祖母の歯は、昔の人らしく入れ歯だった。カチャカチャと洗面台で洗う音が、私にとっては祖母の朝の風物詩だった。

「いつかわかる日がくるわ」

その言葉の真意を知るのに、私には20年かかった。


歯科衛生士として働き始めて5年目になる私は、今日も診療所で患者の口腔ケアに勤しんでいた。小さな診療室には、消毒液のにおいと滅菌された器具が整然と並ぶ。患者の口にライトを当て、歯石を丁寧に削り取る。何百人、いや何千人もの歯を見てきたが、どの歯にもそれぞれの物語が刻まれているように思えるのだ。


その日、診療所を訪れたのは70代の男性だった。髪は真っ白で、スーツを着こなしたその姿はどこか品があったが、口を開けた瞬間、私は驚きを隠せなかった。歯がほとんど残っていなかったのだ。数本のブリッジと部分入れ歯が、歯茎の上に不自然に座っている。

「若い頃、あまり歯のことを気にしていなかったんだよ」と男性は苦笑した。「気づいたらこんな有様さ。もっと早く気をつけておけばよかったよ」

彼の口の中に詰まった後悔の言葉を聞きながら、私は自分の祖母の言葉を思い出していた。人生の宝物。それを失ったとき、人は初めてその価値を知るのかもしれない。


診療が終わったあと、男性が私に聞いた。

「君はどうして歯科衛生士になったんだい?」

少し考えたあと、私は答えた。

「祖母が歯を大切にしなさいって、ずっと言っていたんです。彼女は入れ歯で苦労していました。そんな祖母を見ていて、誰かの歯を守りたいと思ったんです」

男性はしばらく黙った後、うなずいた。「いい仕事をしているね。君の祖母も誇りに思っているだろう」


その夜、私は自分の歯を指でなぞりながら、祖母との思い出に浸っていた。彼女はもうこの世にはいないが、私の中で生き続けている。彼女の言葉は、私の人生の羅針盤になった。

翌朝、診療所でいつものように患者を迎えると、ある女性がやってきた。彼女は中学生の娘を連れていた。娘の歯並びが少し悪いことを気にしているらしく、相談に訪れたのだ。診察を終えた後、私は娘に向かってこう言った。

「いい歯を持っているね。このまましっかりケアしていこうね。歯はね、人生の宝物だから」

その言葉を発した瞬間、私は祖母の言葉を自分の声で再現していることに気づいた。誰かに受け継がれるべきものは、形だけではなく、言葉や想いでもあるのだ。


診療所を出る頃、夕日が街を染めていた。祖母の声が心の中に響いていた。

「いい歯のためにできることを、あなたならきっとできるわ」

私はそっと微笑みながら、明日の診療を思い浮かべた。歯科衛生士として、祖母の教えを守りながら、誰かの人生を少しでも豊かにするお手伝いができるのなら、それが私の使命だ。

そう、いい歯のために。


−完−

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物語の綴り手
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