#005 音楽室で鳴り響く「バイロイトの第九」
高校時代はブラスバンド部に所属していた。中学時代にジャズが好きになり、是非ともサックスを吹いてみたかったからだ。入部後はめでたくアルト・サックスやバリトン・サックスを吹かせてもらえるようになった。
その部活自体は活発ではなく、ホルストの「第一組曲」などはやったが、その他はブラスバンドの定番曲というものもあまりやならいまま、卒業を迎えた。よって、ブラスバンドをやってましたと、なかなか胸を張って言えない部分があったりする(結構、ブラバン厨はめんどくさい人も多いのね)。
当時、ブラスバンドのCDというのも、なかなか手に入らなかった。手に入らない、でも、シンフォニックなものは聞きたい。その代替案として「クラシック音楽」を聞き始ることになった。そして、それは生涯の友となるのだから、人生はわからない。
そうなると「名盤」というものを聞きたくなる。ガイドブックを買い(それが宇野功芳のものだったのも運の尽きだったが)、いわゆる大定番のフルトヴェングラー指揮の「バイロイトの第九」に出会うこととなった。
恐ろしいもので、「第九」のCDは数あれど、やはりこれがベーシックな演奏として刷り込みされている。あまり優れないもこもこした音質も、第3楽章の不安定なホルンも(最初聞いたとき「これがプロの演奏?」と思った)、ディレイがかった不自然なエコーも、すべて差し引いても、この長大な音楽に見事起承転結を作り上げるフルトヴェングラーの解釈は「これしかない」と思わせる。
もちろん、今は他の「第九」を聞くことの方が多いが、あくまで「観光客」として接しているのに気づく。「故郷」はフルトヴェングラーなのだと、歳を重ねるほど気付かされる。
そのCDを家で聞くより、もっともっと大音量で聞きたくなった僕は、ブラバンの朝練(といっても自分しかいなかったのだが)に更に早く行き、その音楽室でこっそりと(は全然していないのだが)、この「バイロイトの第九」を大音量でかけて楽しんでいた。楽しかったな。でも、オーディオの設定を直し忘れて、顧問の先生が首を傾げてたときは冷や汗ものだったけど、バレてたのかもしれない。
この「バイロイトの第九」、プチ整形だとかいや全取っ替えだとか言われるようになったけれど、やはり、どうであれ、心に浸透しやすい(蝕みやすい?)という点では、最右翼の演奏であることは間違いないでしょうね。