母に捧ぐ

先日95歳で何の前触れもなく突然旅立ちました。

誕生日から丁度ひと月経った日でした。

側にい居られなかった懺悔と、昭和・平成・令和を生きていたことを娘として書き綴ろうと思います。


壮絶な人生の幕引きは呆気なかった

数年前からアルツハイマー型認知症の為で介護施設に入所していました。

入所するまでも数々の出来事がありましたが、ようやく入所出来て安全が確保された母は割と落ち着いて生活できており、ほっとしていました。

その月の誕生会のケーキをペロっと完食して「美味しかった!」

その数分後、大動脈弓破裂でほぼ即死

苦しまず、最後ケーキが食べられ『美味しい』と感想が言えたこと、

自己表現できた事が側に居られなかった者としてせめてもの救いだったと思います。

母の人生を振り返ると、今では考えられないほどに波乱に満ちていました。

日本海側の小さな農村に生まれ、9人兄妹の次女で(その当時としては普通の兄妹の数)

私がよく聞いていたのは父との結婚する辺りです。

祖父が戦争から帰った父に、嫁を探すため人づてに母の実家を訪ね、当人同士の意思確認もせず決めた結婚でした。

結婚式当日まで当人同士は顔も知らない!!!

信じられないですが、顔も知らないのは稀な様です。

多分夫になった人はこの人かなと、自分の夫の顔が認識できたのは2日後だったと話していたのが思い出されます。

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嫁の立場と苦悩

父は7人兄妹の長男で10人ほどの大家族で、結婚式の次の日から全ての家事と兄妹の世話、程なく姑が病気のため介護も母の肩にのしかかっており、

電化製品が何も無い時代でしたので、家事に占める時間は途方もないものでした。

『結婚というより手伝いにいくつもりで嫁入りしたんだよ』と語っておりました。

そんな不条理なことがあって良いのかと衝撃を受けたことが鮮明に思い出されます。

中学生か高校生の頃、同級生に親の結婚エピソードを聞いて見たところ、周囲の親世代の夫婦は、似たようなエピソードがいくつかありました。

でも、顔も知らないのに輿入れ(嫁入り)は誰もいなかったのです。

当時は親が決めるのは当たり前?当たり前にしないと家が続かなかったのかもしれません。

話は逸れましたが

見事な男尊女卑の時代の真っ只中で誰よりも早く起床し、誰よりも遅く就寝する生活だった様です。

夫には口答えが許されず、夫の言うことは絶対で早朝から夜遅く迄追い立てられるように働きずめの毎日

ここまで書くと、とんでも無い父親の様ですが、名誉のため話しますと

戦後の混乱の時代(昭和22〜23年頃)ですので家族を養うのは、

当時は長男の役割で、父も必死で働きずめでした。

横暴な所は随所にありましたが、基本優しい性格です。

父は長男であるため、弟妹の学校、就職、結婚まで面倒みる、と言うよりそこも母の役割が大きかった様です。

人間関係も多変だったなと、物心がついた頃には感じていました。

また、4人の子供を産み育てながら・・・・

今でも感心して凄かったと思う事が幾つかあります。

その当時の人は和裁は皆できて当然だった様ですが、ほぼ独学で洋裁や編み物を習得して子供たちに着せてくれていました。

いつ寝ているんだろうと不思議で、いつも何かしら手を動かしていることが日常の姿だったのです。

追い立てられる様に働きずめでしたが、安寧とした日が訪れたのは母が60歳を超えてからだったと思います。

趣味のハンドメイドのバックを作り、母の直ぐ下の妹とおしゃべりをしながら和裁をするのが楽しみだった様です。


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母との関係に悩んだ時期も

思春期以前から関係性に戸惑うことも多く、働き者で、社交的な母との関係で一方的に心を閉ざした時もありました。

自己保身が強く非を認められなくて、自分は正しいと思い込む性格に翻弄されたのです。

性格なのか、環境がそうさせていたのか。

お互いが似たもの同士だったせいなのか


この様な環境で自分を守る為仕方がなかったからか。

親をそんな風に思うのは何て親不孝なことか!と自己嫌悪に陥り

親もひとりの人間と結論づけたのが社会人になってからで

そんな風に思考を変化させたことで、段々年老いていく母に少しは優しく出来たかなと自問自答しています。

母娘の関係で悩む方も多かったり、特別なことでは無い事を理解することで

自分を責めるストレスから少しだけ解放されました。

わざわざ、書くことでは無いのですが母に対する自分の考えを整理する意味で書いてしまいました。

お見苦しくてすみません。













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