アニメや漫画、映画に登場する女性キャラについて
物語では、よくハンディキャップを抱えた女性が描かれる。
これはテレビドラマ、映画、漫画、アニメ、小説などの創作物全般にあることで、弱みを抱えた女性キャラクターが物語を通じて強くなる展開は一般に好まれる。
物語上で女性の抱えるハンディキャップは様々で、内気な性格、家庭環境から病気、障がいに至るまで多様である。
僕は聴覚障害やいじめをテーマにした漫画『聲の形』がとても好きだ。
多くの人が何かしらの作品でそんな構図を見たことがあるだろうし、そうした展開のある好きな作品が一つや二つあるだろう。
そんなよくある作品の構図に気付いて、最近、ふと思ったことがある。
そうした弱みを抱える女性がどんな作品でも容姿端麗に描かれている、と。
僕は前述の『聲の形』で聴覚障害を持つ女性主人公の西宮硝子のことが好きで好きで堪らなかった。いくら何でも可愛過ぎた。
小説は姿がないから、作者が意図して容姿端麗に描くことはできないが、僕がそういった小説を読むとき、頭に思い浮かべるのは、容姿端麗な女の子だった。
これはただ単に僕が異常なだけ、と片付けられてしまうかもしれないけれど、共感してくれる人がいると信じて書こうと思う。
まずそうした弱みを抱える女性というのはその作品で主人公かヒロインという重要な役になることが多い。つまり映画だったら主演級の女優、アニメや漫画だったらその作品の顔になる訳だ。そうした露出の機会が多いキャラクターである。
それでは宣伝ポスターなどに載るキャラクターの姿を想像しよう。
まず映画では顔立ちの整ったスタイルの良い女優が起用される。仮にどんなに闇を抱える役柄であっても、もともとの顔立ちが整った女優がその役を「演じ」ていることが多い。
アニメや漫画はどうだろうか。まず8頭身であることは何よりの前提条件である。手や脚はとても細く描かれこの上ないモデル体型で描かれる。顔もいわゆるイラスト顔で可愛い要素がつぎ込まれている。
もちろんこうした作品は、商業目的であるから、何より多くの人の目に留まり、鑑賞してもらうことが第一である。そうした事情を踏まえると、こうしたキャラクターの設定になることは何ら違和感がない。多くの人がそうした姿を綺麗だと思うし、見ていて心地よいと感じるだろう。だから寧ろ、キャラの容姿を前述のようにしない理由がどこにもないといったところだろう。
僕はここに小さな抵抗信号を発したい。
こうした作品を通して社会や人間の負や陰の側面について目を向ける機会が提供されることは間違いない。実際、作品の創り手が、そうした陰の部分に焦点を当て、多くの人に知ってもらいたいという意図をもつことも多いだろう。
ここで皆さんに問いたいのは、その女性キャラクターの抱える問題や弱みを、自分の好みではない容姿を持つ人が同じように抱えたときに、同じような同情や感動の気持ちを抱くか、というところである。
ここに僕のもつある種のエゴがあることは認める。
だからこそ、僕がそうした作品に触れたときに感じる感情というものが、少なからずキャラクターの容姿というものの影響を受けているのではないかと感じたのだ。
でも考えてみて欲しい。僕らは一般にモデルさんや女優さんを「可愛い~」と言うし、モテるためにダイエットだってする。それは現に、容姿というものの持つ意味を自分自身、理解しているということではないのか。
僕は詳しく調べたわけじゃないから、どちらが先かは分からない。つまりは、僕らが容姿端麗な女性を好むからキャラクターの描かれ方もそうなるのか、それとも、そうした成長物語で描かれる女性は決まって容姿端麗だからその同情や感動に随して好意を抱くのか、という話である。
皆さんがどう思うかは自由であるが、もともとの始まりが前者の説だとしても、それが一般的となった今、後者の説もそれを勢いづけることに少なからず関与しているのではないかと僕は思っている。
僕が言いたいのは、容姿というのは、自分の意思で左右できる面も大きいけれど、最後には抗えない部分というのがあるというある種の諦念の重要性と、容姿に引きずられた解釈の怖さである。
こうなりたい、という思いは誰しも抱えるものだと思う。誰だって自分を綺麗に見せたいだろうし、やっぱり綺麗なものに憧れる。
注意したいのは、この「憧れ」の所以である。そこに本当に純粋さがあるかという点だ。もしその「こうなりたい」が、「こうあらなねばいけない」という思いを少しでも含んでいる時点で注意が必要である。
周りがそれを求めるのは、そうした表現作品の影響を受けている面が強く、SNSやテレビという幻想を抱かせてくれるものから提供されていることが殆どだからだ。
モデルや女優がなぜそれだけで仕事をできているかと言えば、そこに希少価値とプロ性があるからである。もとから持つ容姿は非常に偶然の遺伝的な宝くじに当たっただけと言える。その運命に抗う余地はほぼない。そして、彼女らはお金をかけ「見世物」としての役割を全うするプロ性がある。
アニメや漫画といったイラストも同じことが言える。創作物である時点で、そこに生身の人間として抗う余地は一切ない。イラストレーターは人が心地良く感じるようにいくらでもその技術を使う。
ものすごく酷いことを言っているように思える。確かに、生まれた瞬間にある程度、運命は定まっていると言われたら、生きる意味や希望が少し減ってしまうかもしれない。だが、いつまでたっても追いつけないものに必死になり神経をすり減らし、大切なものを失うより、よっぽど良いのが、諦念ではないだろうか。
自分自身を殺さない程度に努め、その姿を受け入れてくれる人を見つける人生の方が楽しいように僕には思える。
最後に、描かれる負の側面と容姿とを無意識のうちにセットにして考えがちになる人間の特性に注意したい。人間は好意をよせる人に、より同情するし、関心ももつ。だからその意味で作品にのめり込むのは当たり前である。質が悪いのは、こうした容姿の「良さ」と、抱えるハンディキャップの「負」の部分を対比させ、より同情心や感動を生み出そうとしている作品があることだ。
重要なのは、その視点を現実の世界に素直に置き換えることである。
僕が好きな『聲の形』に登場する聴覚障がいを持つ西宮硝子は確かに可愛かった。そして、この作品を通じて持った聴覚障がい者への思いに「可愛い女子」というタグがついていることは間違いなく、ここに気を付けるべきだろう。
聴覚障害を持つ人が全て容姿端麗であるはずがない。そのうえで、漫画を通じて感じた聴覚障がいというものについて、ある特定の人と結びつけず一般化するべきである。そのプロセスを踏めなかった場合、鑑賞者の同情や感動が誤った理解の蔓延に繋がり、作者の純粋な願いが逆効果になる。
その作品に出てくるキャラクターが心地よく描かれ、それを好む分にはご自由にどうぞ。そのあと作品のテーマや負の側面について考えるときには、そこは一度切り離し、落ち着いて考えて欲しい。
以上、長々とハンディキャップを抱える女性キャラが容姿端麗に描かれる件について、僕なりの考えを述べたが、2時間くらい前に思いついて、ばーと流し書きしただけなので、内容の整合性についてはご容赦ください。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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