[ドゥルーズ入門] 檜垣立哉 著 ちくま新書 刊
生の哲学を引き継ぎ、広く哲学のバロック性に棹差し、独自の生命システム論とでも言える思考を展開した、前期ドゥルーズ。ガタリとの思考の大展開以前、定型的な哲学の枠内で仕事をしていた時代の、入門書である。20世紀前半においてはハイデガーが、後半はドゥルーズが、哲学の世界では熱狂され、日本に置いて多大な影響を与えた。この本は、ドゥルーズの、「通俗化」の試み、なのだそうだ。おそらく通俗化とは、一般化というような意味合いなのだろう。ドゥルーズで読んだのは「アンチ・オイディプス」だけ。難解で気絶しながら読んだ。本書は入門書なので、気を失うことはなかったが、それでもいちいちこの言葉はどういう意味で使われているのかに引っかかり、読み進めるのに時間がかかった。ただ、「アンチ・オイディプス」もそうだったが、時折、死ぬほど惹かれる部分がある。>バロック的思考において、あらゆる細部に差異が宿り、あらゆる個体の中に全体が破断的に入り込み、すべてのものがすべてのものとつながっていると描かれているときに、そこで破棄されるものが、まさにヒエラルキーである。ヒエラルキーが廃棄される時に際立ってくるのが、存在が一つの声を多様に鳴り響かせることである。p033とか。ここで描かれるのはまさに、華厳経の世界、華厳的瞑想の世界だ。その思考において重要なのは、一般的な枠組みを超えたところにある時間の概念と、俯瞰、大地の安定感と、私たちが足をつけている地球という惑星が、今この瞬間も高速で宇宙を移動していること、を、同時に感じること。だからこそ、ドゥルーズは国家や資本情報や環境、グローバル性が前面に出ている今、さまざまな論者によって取り上げられる、といことが起こるのだろう。圧倒的に知識が足りず、歯痒い。それでもおもしろいし、私が興味を持っている最近の労働論の文脈でも、「差異と反復」の中で語られるドゥルーズの思想が再評価されているようなので、その辺も詳しく知っていきたい。すべての社会システム、構造の土台に、哲学があると言うことを、以前資本論やマルクスを調べていた時に実感した。人間、や、自我をどう定義するかで世界の構造が決まるので、あたりまえと言えば当たり前なのだが、資本論の裏にヘーゲルがいたり、同意形成のプロセス構築の裏にハイデガーがあったりすることまで、普段は意識しない。でも新しい何かをつくろうとする時、我々は何者でどこへ向かっているか。新しい社会における自我や身体とはどういうものかについての考察なくして、それはなしえない。そういう意味で、今こそ哲学が必要とされている時代は、ないように思う。新しい歴史の転換点に立つと言うのは、たぶんそう言うことなのだ。と言うわけで、また気絶しながら勉強しよ・笑
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