グリーンバーグ批評選集 備忘#2
太字は本文を要約である。
アヴァンギャルドとキッチュ(1939) Ⅱ~Ⅳ
産業革命による生産率の向上により識字率が上昇。それまでの正式な文化は読み書きができ、教養を伴う余暇と慰安を自由に行える層が享受するものだったが、「読み書きはできる」新たな層に代用文化が必要となった=キッチュ。キッチュは成熟した文化の結果を模倣するため、無教養の農民でも絵の中に描かれた価値を発見することができる。一方でアヴァンギャルドにおける価値は造形的価値によって委ねられた直接的印象を反省することで得られるものであるため、その価値は絵の中に描かれておらず絵の中に投影されるものである。
⇒後半のピカソとレーピンのくだりは興味深く読めたところ。国家の条件付けによって国民の芸術嗜好性が変わるのではなく、それを享受する訓練をするだけの余暇があるのかどうか。一応国家の条件付けによってピカソのほうが素晴らしいですよと伝えることができるが、無教養の農民にはその訓練をするだけの余暇はない。そのために安易に楽しみを与えるキッチュに流れてしまう。
Ⅲの内容はⅡに対して付随的な内容のようにも思えてしまうし、Ⅳの内容は明らかにアヴァンギャルドを追放したファシズムに対する反旗の内容である。つまり「キッチュは国家からしてもプロパガンダを注入しやすく国民も享受しやすいものであるためファシズム社会において奨励される」ということ。ここにおいてグリーンバーグは「大衆がアヴァンギャルドの芸術と文化を求めると思われるならばヒトラー、ムッソリーニ、スターリンは躊躇なくすぐにもこのような需要を満たそうとしたであろう。」とも語っており、あくまでもキッチュが悪いのではなく、ファシストらやスターリニストらが人民支配のためにキッチュを利用したという考えをしている。本文注釈において「民衆芸術は女神アテーナーではい、そして我々が望むのはアテーナーである」とあることから、初読した際にキッチュを蔑む内容かとも思っていたが、ある程度キッチュの文化性を認めつつもアヴァンギャルドの発展とその正当性をまとめる文章であると感じる。
初読した際、それはあとがきにも触れられているが、ポップアートはキッチュなのではないか?との疑念は生じた。ただしアヴァンギャルドがⅠにおいて触れられているように既成概念に対する変化を求める動向であると解釈するならば、ニューマンやロスコらの活動に対する新規展開としてポップアートが発生しているとも考えうる。そしてそういった解釈でこの論評を解釈するのがより正しいように感じる。
一方で現在日本においてマンガ文化はアートであるとして、美大卒の漫画家も出てきているものの、その始まりはキッチュなのかどうかは考えるべきところなのかもしれない。つまりキッチュの定義が本文中にあるように読み書きはできるが正式な、高尚な文化を享受できない人々への代用文化であるとした場合に、マンガ以前の文化と比較するならばキッチュとして見なされるからである。ただ一方でこの評論が書かれたころと現在ではメディアの形がだいぶ異なるし、では絵画は成立当初(ギリシャとかそういった古代)から正式な文化だったのかという思いも残り、90年前にはキッチュと見なされるようなものも現代では正式な文化の仲間入りをすることがあるのではないだろうかと、美術を概観できていない私はそんなことを思っている。