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代々 三代目

僕は女性も来れる世界一の床屋の流派を作っています。

何故流派としたいか、
僕自身、流派とは「本流儀から派生したもの」、また「受け継がれていくもの」といった意味と認識しています。
ですので、自分の人生より先に残こる手法、様式、しきたりを構築、洗練し、不変的な哲学を持って社会貢献(仕事)したいと言う望みがあります。

それは多くの先生方からすれば、青臭く、浅はかな考えで、格好つけの戯言なのかも知れません。
ですが、そんな風に昇華できる可能性がある仕事だと僕は信じています。

僕自身が床屋に行くのが大好きで、様々な理容師さん達の技術に対する誇りを感じ、こだわりや所作は「茶道」や「書道」といった「道」と言う学習システムを含み、実際、技術を教えてくださった方を「先生」や「師匠」と呼ぶ事は、理美容師業界では日常的です。

どうして僕がこういった考えを持ったのか
整理したくなったので、noteを開きました。


東京都江戸川区の西葛西という、川に囲まれた街で放任的な両親に育てられ、友達に恵まれた子供時代を送りました。

父方の祖父が床屋を開業し、祖母と父との3人で店を営んでいました。

祖父は僕と妹には優しかったのですが、盆、暮れにはよく親戚どうして喧嘩をしていました。
もちろん内容は覚えていませんが、取っ組み合いにはなっていなかったものの、お酒を飲むと声が大きくなり、気性が荒くなりました。
それでも僕達孫には優しかった。
ハサミで一つでマンションを建て、親、兄弟の面倒を見た苦労人です。
仕事中の祖父はいつも怖い顔(今思うと真剣な顔つき)で、営業中の店にはあまり遊びに行った記憶はありません。

父の小さい頃の話を聞くと、祖父はとても怖く、一緒にご飯を食べるのも嫌で、暴力は日常茶飯だったそう。。
The 亭主関白。雷親父。
地震雷火事親父と、よく父が言っていましたw

僕が小学生3年になって程なくすると、父は仕事を休む様になりました。
毎晩遊び歩き、止める母を押し倒し、時には夕食の乗ったテーブルをひっくり返し、家の金をもぎ取る様にして夜の街へ出て行きました。
朝になったら酒臭い父が布団で寝ている、
僕が学校に行く時間になっても布団に横たわった、だらしない男はぐうぐうと音を立てていました。


母は強い人でした。父が出かけた後は僕と妹は母を励まし、母は僕らを抱きしめ、愛と安心をくれました。簡単には涙を流さない強く優しい、朗らかな人です。

ただ、そんな父も子供達には暴力は振るわなかった。祖父と違っていた。そこは次の世代に続けずにいた。
褒める事ではありませんが、人として筋の通った部分ではあると今では思います。

そんな日々がどれくらい続いたのか記憶にありませんが、小学6年生の頃には父は全く仕事に行かなくなりました。
確かそんな頃、父は鬱病なんだと、母から聞きました。

リビングのいつもの席で座り、うつ向く父ばかりでした。ただ陽気な一面もあり、冗談を言って僕ら家族を笑わす様な所もあったのです。

どっちが父なのか、父はどんな人なのか、子供の頃の僕はよくわかりませんでした。

今思えば躁鬱だったのでしょう。
"躁"状態の父はとびきり面白く、明るく、戯けて、ふざける。
"鬱"状態の時は、うつ向くか、寝てるか、母に弱音を吐いているか、、、

後、これは躁なの、鬱なのか、分かりませんが、思い通りにならない事に怒鳴り声をあげ、母を罵倒していました。
先天性か後天性の性格か、双極性障害か。
父は何者なのだろう、、

ただ、母も父の仕事だけは尊敬し、褒めていました。(母は美容師でした。)

僕が19才の時、祖父が亡くなりました。母が世話をし見取りました。いろいろな気持ちもあったはずですが立派な母でした。
僕自身、涙は出ませんでしたが、なぜか死んだ祖父の額に額をつけたのを覚えています。


どうして厳しい祖父が父を叱咤し、仕事に向かわせなかったのか、今となっては分かりません。何か引け目があったのだろうと想像するだけです。

僕が20歳を超え当時の彼女を紹介すると、父の感情の波は穏やかになりましたが、
ある日、母を殴り、我慢の限界に達した母は家を出ました。離婚です。
正解です。遅いくらいでした。

それから捨てられた父は、仕事もせず、自堕落な生活をしていました。

またある日、父は、祖母を殴りました。
あまりに酷いアザだったので、父と暮らしていた祖母を引き剥がそうと僕は警察を呼びました。
祖母が望めば、父の兄妹と暮らす事もできる状況を作りました。
暴力を振るう奴、ましてや女性に手をあげる奴の事などどうでもいいし、家族に見放されて当然だと考えました。

が、祖母は父と暮らす事を選びました。僕は驚きました。
祖母の回答に、僕は寂しくなった事を覚えています。
祖母の母性だったのでしょうか。
父は祖母の愛を知らず(解らず)に、曾祖母に育てて貰ったと言っていました。
祖母は仕事で忙しかったからです。
だから息子と過ごす決意をしたんだと今では思います。

ただ当時の僕はそんな事は理解もできなかったですし、父を許せなかった。
腹が立ち、顔も見たくありませんでしたので、5年程、一切の連絡も取らず疎遠になりました。

30歳の時、僕はTorontoへ働きに行く事を決意し、一様報告をしようと父に会いに行きました。

学生時代からの友人ではない人達と付き合っていく中で、好きな人にさえ酷い言葉が頭をよぎり口に出しそうになる自分の醜さや、本音だけでは付き合っていけない人間関係に悩み、落ち込み様々な事へ行動に移せなかった自分の意思の弱さや、足りない粘り強さ、などを感じもがいていると、
父はかわいそうな人だと思えたのです。
自分を制御できず、弱気に流され、家族や友達を無くした、孤独でかわいそうな人。

幼い時から父が見せてくれた、「人間の弱さ」そのものが、誰にでも存在している事。
ただそれが顕在しないだけだという事。
顕在させず、消化し、うまく折り合いをつけたり、励まし合いながらなんとかやっている事。
「お前だけじゃない」と言ってやりたくなったのです。


実家を売り払っていた父を探す為、役所に行って住所を調べました。

少し硬くなった足取りで、父の住むアパートの階段を登った事を覚えています。

5年ぶりの父は痩せ、しぼみ、不健康な顔つきをしていました。突然、僕が会いに来て困惑し、妙に余所余所しく、でも喜んでいた様にも見えました。
祖母も一緒に居て、泣いて喜んでくれました。

話を聞くと後悔ばかりの日々を送っていました。
余りにも後悔が多すぎて立ち上がる気力が無い様に感じました。

僕は、祖母を抱きしめ、少しの間3人で会話をし、その部屋を後にしました。


帰国後、父と祖母に再び会いに行きました。
渡航前と何も変わらない父がいました。
祖母がまだ生きていて嬉しく思いました。
憂鬱な空気が漂い、散らかった、埃っぽい部屋で、生活保護と祖母の年金でなんとか暮らしています。今だに何も変化はありません。

息子から見て父に一筋の光が見えたのは、僕が床屋の仕事について話し、父がそれを聞き、返答する時、僕が見てきた先生や師匠達と相違ない話し方や表情が見て取れました。

僕は一緒に仕事をしてみたいと思いました。
と同時に、父が後悔しているこの人生で成仏して欲しいと願いました。
父が自分自身を許せる事ができれば、、、、

そうあって欲しいと心から思う事の為に、できる事をやろうと背中を押してくれたのは、奇しくも父でした。

祖父が残してくれた、床屋と言う道で人生論までも包括しなが学び続けられる事に面白味を感じています。

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