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宗教の意味が変わる日本(中外日報を読んで)

中外日報にこんな記事があった。

“日本は102カ国中、最低 「宗教は非常に重要」米研究所調査 インドネシアは最も宗教的(2024年8月27日)

米国の世論調査研究所ピュー・リサーチセンターによると「宗教が人生において非常に重要である」と答えた成人の比率は、調査対象102カ国・地域の中で日本が最低の6%だった。同じアジアでもインドネシアは成人のほぼ全てが「重要」と答え、極端な差を示した。

同センターは2008年から23年にかけて世界各地で宗教に焦点を当てた調査を実施してきた。それによって「人生における宗教の重要性」「日常で祈りを捧げる頻度」を宗教性の基準として判定した場合、最も宗教的な地域はサハラ以南のアフリカ、ラテンアメリカ、中東・北アフリカで、逆に最も宗教的でないのはヨーロッパと東アジアという結果になった。

後者の中で日本は「重要性」で102カ国・地域中最下位となり、祈りの頻度でも80位(毎日祈る19%)と低位だった。”

なぜこうなってしまったのだろう。

1945年の敗戦以来、まもなく80年。幸い我が国では平和が続いている。多くの国ではその間戦乱があり、若者が戦場に送られ、市民が戦災に巻き込まれた。
また世界一の長寿国になった。元来の健全な食生活や温暖な気候もあったろうが、優れた国民皆保険による医療へのアクセスの良さが他国と大きく異なる点であろう。

多くの宗教は、あまりにも残酷で無情な運命を避け難く、思い半ばに人生を終えるものを弔い、さらに自らも無念の中にことたえるとき、慈悲に満ちた神仏に救いを求め、死後の転生と平和を求める中で、信仰を集め、発展してきた。

これは一神教はもとより、阿弥陀如来などの限りない慈悲にすがる我が国の大乗仏教信者の心も同じであったろう。

しかし今の日本にあっては十分に生き、思い残すこと少なくお迎えを待つ老後の数十年、死への恐怖はあるものの、この世への感謝の気持ちに満たされ、浄土を希求することは、例外はもちろん多くあるだろうが、かつてより少なくなっているだろう。
また今日、65歳以上の5人に1人、80代90代では半数近くが認知症という状況では、死への恐怖どころか、多くの動物同様、自己を認識することもできない(まさしく「無我」の境地だ)。

こうした日本の置かれた幸福な状況においては、とにかく救いを求めようということで「宗教を人生において非常に重要」だとする回答が著しく低くとどまるのは十分肯ぜられることである。

祈りについては19%と比較的多くの日本人が毎日祈っているようだが、この中には、合格祈願やプロジェクトの安全や成功を祈る現世利益への祈りが多く含まれているのではなかろうか。

加えて明治維新における廃仏毀釈とその後の西欧宗教学研究が露にした大乗非仏説による伝統仏教の権威喪失、敗戦による国家神道の完全否定に巻き添えとなる形で、そこに合祀されていた氏神、鎮守の地域密着神道の衰退がある(地域の神社については祭りの復興として若い世代で熱心な取り組みが活性化していることは嬉しいことである)。

しかしである。そもそもの釈迦の仏教、ゴータマシッダールタの出家から悟り、入寂までの苦しみと解脱の教えは、今日まで伝わるダンマパダやスッパニータによる限り、むしろ今日の日本人の苦しみと、理想とする解脱に近いのではないだろうか。
シャカ族の王子として何不自由ない生活の中で、尽きぬ欲求執着が、満たされぬ心という不幸を生み出したブッダの問題意識は、現代日本の平和と長寿の恵まれた環境の中で、争いや不道徳や果ては絶望による鬱や自死までに至るわれわれの不幸と似てはいないか?

一方、戦後生まれた新興宗教は、オウムや統一教会などの問題で、近づきにくく、自らの信仰を他言できないものとしてしまった。

そこで南伝でシャカの仏教を多く伝えるというテーラワーダが少しづつではあるが若い世代の信仰を集めたり、仏教書が着実に売れ続け新しい仏教リーダーが宗門にとらわれず人気を集めたり、佐々木閑さんだけでなく、多くの仏教系大学に高齢者の聴講生が増えたり、となってきているのではないだろうか?

そこで教わる仏教理論は、救いの教えというより、哲学の領域としてプラトンからスピノザ、カントにつながる西洋哲学や、ソシュールやヴィトゲンシュタインの言語学などが論じる領域と重なるものだが、日本人になじみある仏教をもって語られ、天台、真言、浄土、日蓮、禅など自らの実家の宗派につながるものも見出せば、実感をもって学ぶことができる。

そこでは「悲惨からの救い」ということではなく、「私とは、この世とは、何なのか」という答え探しの学びを通じて、智の中で悟りにいたる初期仏教の解脱のプロセスを体感できることで、自分探しの「有る·無い」、人生の意味探しの、「意味・無意味」の解答をつかむという別のかたちでの救い、出口があるように思えるのである。

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