諸法無我(3)よく整理されたお話をみつけた
「空とは何でしょう? ―中観派の教えを学ぶ」という東大斎藤明先生のお話がよく大乗仏教や空、諸法無我について整理されていて、わかった気がする。以下抜き出しつつ自分として理解してみる。
釈迦が修行で気づいたことは、苦しみは過度に自分自身に執着することから生じるのだと。でも諸行無常であり、諸法無我だから、こだわり執着する対象もこだわってる自分もないよ、ということで無我、非我を説いた。しかしそのためには出家して、布施のみで生き、財物を一切所有しない、という厳しい戒に従うことが求められた。自分を常に見失うことのないよう、飲酒酩酊も禁じられた。覚りを得た阿頼漢となれば解脱、涅槃に達し、輪廻転生からは卒業できるが、しかし成仏はしない(仏にはなれない)。
そうした修行者がひとりが覚って解脱する初期の仏教から、みんなを救って浄土に行かせてくれて仏になれる大乗仏教に完成していくには、空の思想、唯識、如来蔵、本覚という大きく4つの考えの進化があったようです。
龍樹は縁起、すなわち原因によって生じるものごとは固有の本質をもたない。事物に固有の本質はないが、そこに固有の本質があるかのような錯覚はある。それが錯覚にすぎないこと気づかせるために、「空」と言った。錯覚を錯覚であると気づくこと、それによって煩悩の根源に巣くう心のはたらきから解放される。
このような理解こそが煩悩からの解放であると。般若心経である。
天親菩薩の唯識論は、すべては識のみであるという思想で、視覚など五識、意識(思考)、末那識(執着)、阿頼耶識(潜在意識)を使って、外界はすべて作り上げられた錯覚だ、と。龍樹の空同様に錯覚と気づけば煩悩や苦から解放される。法相宗として興福寺や薬師寺に。
空の思想や唯識では、厳しい修行がなくても、深い思索瞑想によりおかれた境遇を錯覚と気づけば苦から解脱できると。
如来蔵説はすべての衆生は如来の見えざる子どもであり、すべてのものは仏の本性をもっているという。国土草木悉皆仏性や曼荼羅のようなもので華厳経から密教に。法華経でもすべての人は過去、現在のどこかで仏陀にであっており、だから釈迦と同じ様に成仏できる。解脱どころか仏になれる。
本覚思想はすべての有情は本来目覚めているというが世辱にまみれて気づいてないだけ、という思想で、さらに阿弥陀如来は十八願ですべての人が成仏できるまでは自分ひとりで浄土に行かずにみんなを救うためこの世にとどまるぞ、と公約してるから、阿弥陀如来を念仏称名すれば成仏できると。
こんな流れで、初期のブッダの仏教から空、唯識、如来蔵などで体系化されて大乗仏教に、さらに日本の浄土宗、浄土真宗になってきたように、今のところ理解しました。少し近づいたかな。