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実業につきながら悟りを目指す方がいいのだ!という維摩経に勇気づけられた

戦前生まれの親のもとで育ったり、職場の上司にまだ戦前生まれがいた頃は、時代的にも日本のトリニティ、神道、仏教、儒教がそこかしこに残っていた。実業家、学者、作家や評論家も戦前、戦後の歴史観の中で発言していた。神道は自然なるものへの畏怖、仏教は無欲、無我、無常、儒教は忠孝。下駄に破れたジーンズ、銭湯が粋だった。朝日新聞が中道だった。ブランド志向は田中康夫の頃から、拝金主義はNTT上場の頃から、グローバル化、円高で日本人は金持ちとして世界で振る舞い、今やそれを中国人が真似して、嫉妬する。
私もアメリカ駐在が95年1ドル79円、中国駐在が同国WTO加盟直後の2002年から、東京在住が2014年からタワマン、地価高騰の時期で、価値観がどんどん悪化して人格が俗物化した。

青山の246裏の公園で今は亡き愛犬ココア


今一度学び直し、と思ったが、神道、儒教は支配の道具として使われたこともあり、悟りを目指す私にとって、もう一度学びたいと思わなかった。
それで佐々木閑さんの釈迦の仏教をずーっとフォローして、大乗はダメかなぁ、ニセモノかなぁ、近世仏教堕落論や大乗非仏説などかじるもんだから、在家門徒の私としては元気なくしていたんですが。。。
この度三田誠広さんの「釈迦と維摩」を読んで、在家の大乗門徒でよかった、と勇気づけられた。
在家で欲や、悪行や、妬みや、裏切りや、争いや、その中にあってこそわかること。不二の法門。舎利弗やマハーカッサバという大阿羅漢が専業の象牙の塔の修行者として、驕り高ぶるピエロとして馬鹿にされる。弥勒菩薩すら予め将来を約束されたエリートとして弱々しい。文殊菩薩や阿弥陀如来はすでに解脱しながら、もう一度世俗にまみれ修行を続ける。
一方で維摩は実業を営み、欲にまみれ、悪行に手を染めながらその矛盾に満ちた生活の中で真実を悟り、誰よりも強い。

外苑キラー通りの禅宗寺院で愛犬ココアと

院に進んで学者になるでもなく、ジャーナリストやコンサルになるでもなく。しかし実業の中で参謀の仕事を続けて、北米の事業統合や、技術本部の組織改革や、中国事業の資本政策や、住宅事業の再編や、コンサルの皆さんをお仲間にしつつ、実業の利益追求の要請を第一にしながら、学生時代やりたかった、薄っぺらに聞こえる「企画っぽい」仕事を一貫して続けられたのは、骨太の実業の中にあったからかな。

今も在家にあって、理論的には矛盾に満ちた大乗仏教徒であるが、この方が解脱への近道かもね、と勇気づけられる一編であった。読み始め、ゆっくり味合おうと思ったのに、まさに巻措く能わずのスピードで読んでしまったのである。

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