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旅日記: 移りゆく微細な色彩と、ベネチア派絵画


たえず移りゆく光と影のゆらめきの中で、ベネチア派絵画は生れた。そんな風に記していたのは塩野七生だった。

2泊3日の滞在中、宝石箱のようなベネチアの街中を忙しく歩き回った。

船上から眺める大運河沿いの街並み
あちこちに架かる大小の橋
無数に入り組んだ路地

どの通りや広場に行きあたっても、息を飲む美しさであるが、同時にわずか5平米ほどの小さな島の中には、多くの文化財がひしめいている。



朝早くからバポレット(水上バス)に乗り込み、ジャム入りクロワッサンをほおばりながら、ゆっくりと座る間もなく一日中動きまわっていたが、そんな足取りに呼応するように、天気の移り変わりも忙しかった。

出発前の予報では3日とも雨だったが、それはいい意味で外れた。海上に浮かぶベネチアの天気は、小雨、曇り、合間に晴を繰り返した。

晴天の下、大運河がエメラルドグリーンに波打ち、建物がくっきりと映えわるさまは壮観だが、もっと複雑で多彩な表情を見せるのは空が雲に覆われている時だ。

厚い、あるいは流れる雲の間からきまぐれに日が射す。すると暗い色調の中に沈んでいた海面や、荘厳な寺院のファサードの一部が突如、啓示を受けたかのようにオレンジや淡いバラ色に浮かび上がる。薄暗い路地の中にいる時は、遠くに見える塔がふいに光を受けたことによって、太陽が顔を出したことを知る。



その姿はそのまま、昇天するキリストや聖母を照らす光となって現れる。
色彩を追求したベネチア派絵画は、淡い、微細なニュアンスの中を漂っている。

そこにはルネッサンスを牽引したフィレンツェ派のような明快さも、イスパニア絵画のよう強いコントラストもない。同じように光の印象を色彩表現で追求しようとした、印象派のそれとも違う。

ティチアーノ「聖母被昇天」:サンタ・マリア・グロリーサ・デイ・フラーリ教会
ティントレット「最後の晩餐」:サン・ジョルジョ・マジョーレ教会
ソリメーナ「受胎告知と天使」:サン・ロッコ教会

ベネチアの色彩は、空と水辺の間で絶えず波打ち、お互いを移しあっている。陰気な雲の合間から、光がぼんやりともれ出る。そうかと思えばいつの間にか、辺りは爽快に晴れ渡っている。船上からの眺めのように、その印象はたえずゆらめいている。

多くの印象派の画家が愛した南仏の光は、目にした瞬間、全ての景色が網膜に焼きついてしまうような鮮烈さがあるが、ベネチア派が魅せられた光と影は、とらえどころのない移ろいに、最大の特徴がある。


好天に恵まれとは言えない日々の中で、計らずしもティツィアーノやティントレットをとらえた色彩の中に身をおけたことは、素晴らしい経験だった。

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