【異郷日記】11/10/24 感じる・信じる・信じきる

朝遅くなったが、また昨日と同じく9時頃にヨガの朝練してから仕事の募集要項にとりかかる。なにしろ一週間ほどよく眠れていなかったが、幸福感が急にきたことによる不思議なハイ状態で大丈夫だった。毎月のルーティンがきて、一気に疲れや蓄積した睡眠不足のつけが溢れ出てきた。このところ、7月くらいから調子がよく、ほかの皮膚と同じような柔らかさで、ただ赤みがある程度に落ち着いた乾癬もまた乾燥して硬くなってきた。睡眠不足もあるし、グループラインに返してなかったり、仕事だったり、いろんなストレスだと思う。落ち着いた時は、自分を責めている時に気がついて、大丈夫だと自分を守るように話しかけるようにしていた。その前は無自覚に自分をことあるごとに責めまくっていたのだろう。

応募書類を書きながらも、グループラインに返事してないことが気になる。私の問題とはなにか。一番困ってること、つらいこととはなにか。ここ数日ぐるぐる考えてわからなくなる。心臓に冷や汗をかくような気持ちだった。こういう切羽詰まった気持ちは、特定の別の場面でも過去にあった。最近だと、先週の金曜に、生活費が足りない同僚とクライアント多数と、みんなの期待に一気に応えようとして苦しくなってどうしていいかわからなくなってしまった件だ。人の期待に応えようとしてかっこつけるきらいがある。悪い癖だ。期待に応えて、必要とされていることを確かめたいのか。自分の存在価値を確認したいのか。無自覚の意識が出てきて怖くなる。そして、それは確かに子どもの時に持っていたものだと思う。向けられた期待は必ずしも高くなかったが、特に問題のない、優しい、気の利く良い子だ。その期待に応えようとしながらも、しかし、そういうものがある意味では世間でよくないとされているものを察知して、うまく内包しているのかもしれない。自分の気持ちや率直な感覚を出せなくなっていて、べき思考で補填していた。

母に電話する。私から連絡がないと思っていたという。こちらはラインの返事もないし、電話に折り返しもないから遠慮をしていたと話す。またそれかと冗談まじりに言われるが、私はとても気をつけて母に気を使わせたりしないように邪魔にならないように遠慮していたと言いつつ、珍しく盛り上がって嬉しかった。大谷翔平選手の活躍がとても楽しみらしい。彼のパフォーマンスはもちろん、球場ののんびりした様子、観客が食べている何か、同じ野球中継でも日本のテレビに移るシーンとは全く違う異国の情景がいろいろ想像力をかきたてられ、物語の中にいるような不思議な気持ちになるらしい。私が海外にいるというのも多分にあるのではないかと思いつつも、やはり私は母の子だと思った。その感性は私にもある。珍しく母はまだ話したそうだったが、30分くらいで切り上げた。

おなかがぎゅうとなってレバーがでた。しかし冷えや痛みはかなり少ない。

応募書類に戻る。だいぶきれいに整頓した気はしたが、どうだろう。家人に聞く。こう言う時に普段の怠惰な生活を悔やむ。もっといろんなこと、たとえば本を読んだり、関連の知識を高めたり、ができたのではないかと思う。いつもは心臓がバクバクしてめまいがしながら、これでいいのかと思いながら、いつもは焦って時間ギリギリに提出する書類だが、今回は二時間ほど早めに落ち着いて出せた。結果は神のみぞ知るということだが、こう言う時に不思議と神というか大きな力を意識するから現金である。

しかし、存在を感じることと、信じること、信じきること、信じ抜くことは全く違うと思った。私は一瞬そういうものを感じて、信じることができた歓喜に満ちたが、冷静になると、今までと違いすぎる。宗教的なパスをいく人というのは、ここで疑いを持たないか、持ってもそれを打ち消す方向へ行って、一体化していくのであろう。それは心の安寧をもたらすのかもしれないが、そこにすべてを振り切ることはまだ自分の心の底からきた思いとはいえないような気がした。またいつのまにか、そういう場で期待される反応を無意識に導き出し、それに応えたくなっている自分がいた。不信心な心から一気に信仰に振り切る極端さが自分にもあり、それは自分の、早く楽になりたいという怠惰な気持ち、いいと思ったらそこで起こる疑問をつぶす雑さ、カッコつけたい、人の期待に応えたい、いろんな気持ちが詰まっていた。

頭がぐちゃぐちゃになりながらも、グループラインを送る。私は人に影響されないように気をつけている、つまりは本当は影響をとても受けやすいのだ。意見をぶつけ合うのに感じる抵抗感で億劫になり、その代わりに人を喜ばせようとしてしまう習性がある。メッセージを送ったあともよくわからないし、書いている今もよくわからない。どこまでをシェアするかも自分次第だが、追い詰められるとわからなくなるし、そんな原理を意図的に使っているのが新興宗教なのだと思う。

そういう自分の特性を、ただそのままに受け止める。いいか悪いかのジャッジが入ると、途端に受け止められなくなる。ジャッジは必要だが、受け止めた後だ。そこの感覚がまだ全般に行き渡っていない。まずは受け止める、ただそのままに。よいことも必要以上に握りしめて我が物にせず手放す。

とにかく仕事へ行った。里親のところへいくクライアントの突然の最終日。もう一人のクライアントと、いかによいロールモデルかを話して、よい影響を与え会う関係の心地よさを再確認した。早めに仕事をさくさくと終わらせられたのはよかったが、なんとなくだらだらしながら泊まり番。

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