第21段 よろづのことは、月見るにこそ。

徒然なるままに、日暮らし、齧られたリンゴに向かいて云々。

『月が綺麗ですね』と言えば、夏目漱石だ。この言葉は有名すぎるほど有名だが、俺はどちらかというとこちらの俳句の方が好きである。『あるだけの 菊投げ入れよ 棺の中』これは夏目漱石が、当時夢中になっていたというマドンナ、大塚楠緒子さんに捧げた詠として知られている。品があるように見せかけて実はこれは、とんでもなく最高にロックな詠なんじゃないかといつも思う。否、語弊があるかもしれない。ロックというよりも、大人の皮を被った子供が大声で泣きわめき、絶叫している詠に聞こえてならないのだ。そうしてそれがたまらなく俺の心を揺さぶる。正直、月が綺麗ですねなんざ話にならない。格好つけてお高くとまってんじゃねぇよ、などと罵詈雑言を浴びせてしまいたくなる俺がここにいる。裏を返せばそれほどまでに、俺はこの詠のなかにいる漱石が好きなのだろう。急に、俺は絶対にお前の味方だ!とかなんとか言いながら肩を組んで酒を酌み交わしたくなってしまうのだ。漱石という人は非常に不思議な人で、その実、本人に違わぬ根暗な話をたくさん書いているのだが(あれれ、どっかの誰かさんみたいだな)、たまに本性を現すのだろうか、唐突に彼の中のちびっこギャングが姿を現す。例えば『それから』という小説。これは日本の文壇史の中で初めて『I need you.』という言葉が登場したと言われている。もちろん英語ではなく日本語でその言葉は綴られているのだが、せっかくなのでこちらにも書いておこう。主人公・代助が、想いを寄せる三千代へ向かって捧げた言葉だ。『僕の存在には貴方が必要だ。どうしても必要だ。僕はそれだけの事を貴方に話したいためにわざわざ貴方を呼んだのです。』この世にこんなにも美しいことがあるのだろうか。自分の人生にあなたがどうしても必要不可欠でいてくれなくちゃ困るから、頼むからその思いの丈を話させてくれ、そのためだけに俺に時間をくれと懇願しているのである。人間は誰しも、相手に拒絶されるのが怖い。先日、空手道場で組手を行なった。俺は初心者なので軽く、という感じでいつも手加減してもらうのだが、払いという技の練習をした時に強烈に感じた想いがある。それはまぎれもない、『恐れ』だった。いつもは優しい先輩が、俺の突きを総て薙ぎ払う。突きはもちろん攻撃だが、それよりも、俺自身を拒絶されたように感じる瞬間があった。先輩は冷静沈着で、決して俺の攻撃を受けないようにという感覚で動いていることももちろんわかってはいる。じっと瞳の奥の奥でさえ射抜かれそうな目つきで見つめられ、手はオートマチックに、反射的に動く。動くというよりも、捌くといったほうが近いのかもしれない。そのせいだろうか、余計に先輩の所作の一つ一つが、兎にも角にも冷徹に思えてならなかった。そして何よりも、頭では『組手』とわかってはいるのだが、心ではそれが『拒絶』という概念にすり替えられてしまっていて、なかなかに扱いきれず厄介な代物だった。もちろん練習なので引きずることも何もないのだが、それでもあの時感じた想いは、ある意味で俺の中から一生涯、消えることはないだろうと思う。世界は圧倒的な暴力に支配されていて、それを知っている人間と知らない人間とでは天と地ほどの差がある、とかつて師匠に教えられたが、まさにその片鱗を体感することができた。つまりは、それくらいに人間というものは脆く、そして相手に拒絶されることを何よりも恐れる生き物なのだ。だからこそ、この代助の一世一代の玉砕恋歌は何よりも強烈で、かつ美しいのである。人間は実はいつだって負け戦をしたい生き物だ。勝ち戦は無論、負け戦というものはどことなく心を揺さぶる浪漫のようなものがある。少し自慰的かも知れないが、負けるとわかっていて強大なものに立ち向かう、その時人間の放つ鈍色にも近い光は、やはり得体の知れない美しさが付きまとう。そうしていつまでも俺を翻弄し、俺自身も見えない渦のようなものに呑み込まれていくような感覚がある。人間はいつだって、最期の最期は誰かの記憶に遺りたいのかも知れない。写真がなかった時代は特に、記憶が頼りだ。もちろん今でも、写真というものはあくまでツールの1つであって、その人自身だったり思い出だったりの手触りを遺すものというのはあくまで記憶が総てだと思っている。そう思うと、人間は誰かの記憶の中でやはり、いつまでも生き続けたいと思うのだろうか。そのひとの中に遺るように、遺れるように必死になって自分自身を刻みつけようとするのだろうか。代助のように捨て身になるというのはある意味それに近しいものなのかも知れない。思いによって総てを強いられる、それが我々人間の世界に君臨するたった1つの事実なのかも知れない。そうしてそれすらもいつしか埋もれていき、ただ無の世界へ還っていくのではないだろうか。

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