自分の魂の望む方向へ(引用が長いです)

魂と理性の一致

 昨日の記事「取り戻せたらしたいこと」で、「自分第一で自分が満たされるものを追求していく」「またどこに書いてあったか思い出したら引用しますね」と書いたので、
 魂と理性の一致についてかかれた「振り子の法則」シリーズ第2巻から該当すると思われるところを引用します

 今、「自分軸、他人軸」というコンセプトが一般的になっていて、「魂と理性」ではなくても「右脳と左脳」などとして実体験をシェアしてくださっている方もいらしゃるので、知識としては目新しくはないかもしれませんが、昨日引用するって書いたので一応書きますね。

 読み返すと、自分が今まで如何に魂をないがしろにして振り子に振り回されて消耗してきたかを再確認してちょっと切なくなりますが、気を取り直してまいりましょう。

他人の目的
これまでに私たちは、人生ラインで繋がっているセクターを持つバリアントの空間という人間にとっての外部世界について考えてきた。もし人間の思考放射のエネルギーのパラメーターがあるセクターのパラメーターに合致したら、そのセクターは物質的に現実化される。しかし、エネルギーという面についていえば、人間自身も独自のユニークな放射スペクトルを放つ個体としての本質を持っている。個々人がバリアントの空間に、その人の魂のフレイルに最もふさわしい「自分自身の」人生ラインを持っている。
 自分自身の人生ラインでは人は最小限の障害にしか遭遇せず、すべての状況が自分に有利になるように展開する。人の魂のフレイルは自分の人生ラインと融合し、簡単に自分の目的を達成する。同様に、専用のカギは鍵穴で楽々と周り、閉まっていた扉を開けてくれる。
 こうしたことのすべてがなぜどのようにして起こるのか、私たちが正確に知る必要はない。各人が自分のための道を持っているという事実だけが意味を持つ。もし人が自分の扉を通って自分の目的に向かって進んでいるのなら、すべてはうまく行くだろう。
 そうではなく、もし人が自分の道からそれたとしたら、その人にはありとあらゆる困難が襲い掛かり、人生は生存をかけた闘いの連続に変わる。魂にとって、それは本当の悲劇である。あなただって、もし休日に天候が悪ければ、調子をおかしくすることだろう。魂に与えられたこの人生というまたとないチャンスが無駄になるとしたら、魂の気持ちをあなたも容易に察することができると思う。
 魂は、振り子に熱をあげたり理性が人生を台無しにする様子を眺めているが、自分では何も変えることができない。理性はこの世界にやってきても、何をするべきか、何が欲しいか、何に向かっていけばよいか、はっきりとは知らない。魂は、正確には知らなくても、少なくとも見当をつけることができるのだが、理性は魂の伝えたいことを聞こうとはしない。そこで振り子たちは理性を自分の意志に従わせようとして、理性に自分の目的とゲームのルールを押しつける。振り子たちは人々が他人の目的を選び、他人の扉の前に群がるよう仕向ける。理性に影響を与えようとする魂の弱々しい試みは何の効果もない。振り子たちからの影響は、それほど強力なのだ。
 私たちの多くは子供のころから、成功とは、たゆまぬ努力によってしか達成できないものだと教え込まれてきた。また、障害を克服しながら自分の目的を目指して粘り強く進む必要があるとも教えられてきた。そこにある最も大きな誤解のひとつが、幸福を得るためには忍耐と我慢を重ねつつ闘い、たくさんの障害を乗り越える。すなわち、日の当たる場所を奪い取る覚悟が必要という点である。これは非常に誤った固定観念だ。
 この固定観念がどのようにして形成されたのかを見てみよう。通常、人は振り子の影響下に陥ると、自分本来の道から外れてしまう。当然のことだが、その人の進もうとする道には、障害が山のように積まれている。しかし、人は幸福をつかみたいから、山のような障害を乗り越えるしかなくなる。ここでその人は何を誤解しているのだろう?他人の扉を経由して、他人の目的に向かおうとしている点だろうか。否!答えは、あなたにとっても本書の読者の全員にとっても、またしても意外なものだ。
 人が誤解しているのは、「もし私が障害を乗り越えたら、その先には幸せが待っているに違いない」と思い込んでいることになる。これは幻想以外の何ものでもない。その先には幸せなど待ってはいない!どんなにがんばっても、いつもその人は沈もうとする夕日を追いかけるような状態のままなのだ。他人の人生ラインでは、近い将来においても、遠く離れた将来においても、どんな幸せも待ってはいない。
 掲げた目的をたいへんな苦労をして達成した多くの人々は、無気力以外に何も感じてはいない。幸せはどこへ行ったのか?幸せなど、そこには初めからなかったのだ。幸せだと思われたのは、振り子によってもたらされた蜃気楼であった。振り子はそうすることで、まぼろしの幸せへと向かう途中の人間からエネルギーをもらうことができるのだ。もう一度繰り返す。その先に幸せは待ってはいない。幸せは現在いる人生ライン上の今ここにあるか、それとも、まったくないかの、どちらかなのだ。
 それでは、トランサーフィン・モデルにおける幸せとは、いったいどこになるのだろう。もし自分の目的を達成したなら、幸せはやってくるのだろうか。そうではない。幸せは、自分の扉を通って自分の目的へ進んでいるときにやってくる。もし人が自分の人生ライン上、つまり自分の道の上にいるのであれば、たとえ目的はまだ先にあろうとも、今すでに幸せを味わっている。そういうとき、人生は祝日に変わる。そして目的が達成されたら、喜びは一段と大きくなることだろう。このように自分の目的へと向かうことそのものがすでに毎日を祝日に変えてくれる。他人の目的へ向かうことは、いつも祝日をまぼろしの未来に預けておくことになる。他人の目的の達成は、幸せではなく、絶望か無力感しかもたらしはしない。
 あなたの目的は、あなたに本当の喜びをもたらす。それは一時的な満足感をもたらすものではなく、人生の喜びという感覚をもたらすものだ。あなたの扉は、自分の目的へと続く道だ。あなたはその道の途中で興奮とインスピレーションを感じる。そこを進むと、いつもすべてが簡単に与えられるとは限らない。なにはともあれ、あなたの扉を通って進めば、無力感に陥れることはなく、逆に力がみなぎってくるのを感じるのだ。
 もし自分の扉を通って自分の目的へと進んでいるのなら、障害を乗り越えることも容易で、苦労もたいした負担にはならない。もし目的に続くはずの道で、あなたが全力を傾けて苦労しても、インスピレーションがもたらされず疲れ切ってしまったのであれば、それは他人の目的へ向かおうとしているか、自分の扉ではないところへ押し入ろうとしているのだ。そこで、他人の目的に向かって進む場合の特徴的なきざしとはどんなものか見てみよう。
 他人の目的に向かうことは、いつも自分自身への暴力であり、強制であり、義務である。もしあなたの目的と思うものの中に、たとえほんの少しでも強制力を感じるのであれば勇気をもってその目的とは縁を切ろう。目的があなたのものならば、自分を説得する必要はない。目的へと進むことは心地よいからだ。目的の達成プロセスは喜びをもたらす。ところが、他人の目的へと突き進むあなたは、たくさんの障害を乗り越えることになる。他人の目的へと続く道は常に闘いの連続である。振り子にとって必要なのは、皆が振り子のメカニズム全体のためにネジ釘としての仕事をきちんとこなしてくれることなのだ。あなたにとってとっても辛いことだろうが、あなたはそれをやり遂げることだろう。なぜなら、振り子はあなたに、すべては重労働によって与えられると吹き込んだからだ。「もしお前さんが気丈な奴なら、自分に打ち勝ち、自分の道から邪魔なものを排除し、たとえ火の中、水の中、お構いなしにくぐり抜けて突き進み、日の当たる場所を勝ち取ることだろうさ。もしお前さんが気弱な奴なら、身の程ってものをお知り、少し黙ってな!」
 他人の目的は流行や権威と言った仮面で装う。振り子にとってはあなたを他人の人生ラインへとおびき寄せる必要があるので、どんなことでもやりのける。ニンジンはとても美味しそうに見えなければならない。そうすると、理性は向う見ずに飛びつくという寸法だ。振り子はどんな場合でもあなたに、「私のようにやってごらん!」と強制できるとはかぎらない。そのため、スターたちの成功物語という伝説が作られた。あなた自身がそれをまねしたくなるようにだ。そうなるように、振り子は、スターたちが成功した方法をアピールする。他人の経験を繰り返してみるか、何も得ないままでいるかどちらかしかないというのだ。あなたに成功をつかむ方法がわかるはずもない。だが、振り子は知っている。成功は目前だという。ところが、すでに述べたように、スターたちが成功を手にしたのは、まさに、「私のようにやってごらん!」という手口に乗らず、自分の道を進んだからにほかならない。あなたが成功する方法は、あなたの魂のほか誰も知らない。
 他人の目的は、その近寄りがたさであなたを誘惑する。
人間は鍵のかかっているものすべてに引き付けられるようにできている。近寄りがたさはそれを所有してみたい願望を産み出す。このような人間心理の特徴は、たくさん欲しいのに、ほんの少ししか許されなかった子供時代にまでさかのぼる。もし赤ん坊が欲しいおもちゃを断られたら、へとへとに疲れ果ててでも、それを手に入れようとするだろう。だが、手に入れてしまったら、そのおもちゃへの興味をすっかり失ってしまう。大人には別の意味のおもちゃがあるが、彼らも子供と同じようにふるまう。たとえば、赤ん坊のような大人が、音感もなく、良い声も出せないくせに歌うことが天分だと思ったとしよう。実際、このコマドリさんは、歌が自分の進むべき道ではないことを認めたがらないのだ。「ほかの奴らはうまくやっているのに、自分のどこが奴らより劣っているというのだ。」目的の重要性を振り払ってから、次の質問に答えよう。あなたは本当に心の底から望んでいるのか、それとも、望む行為だけがしたいのか。もし目的を達成する行為によって自分やほかの人々に何かを見せつけたいのであれば、つまりそれは偽りの目的である。あなた本来の目的は、首にかけられた重たいおもりではなく、あなたに本当の喜びしかもたらさないのだ。
 他人の目的は、他人によって押し付けられたものだ。あなた以外に誰もあなたの目的を定めることはできない。どのようにふるまうかについて、「知識や経験の豊富な人々」の教訓を静かに傾聴することはあるだろう。自分としての結論を出して、学んできたとおりにふるまおう。しかし、誰かがあなたの目指すべき方向について教えを垂れようとし始めたら、その人があなたの魂に押し入ろうとしているのだ。そうした許しがたい行為は即座にはねつけよう。そうでなくても魂は理性によるばかげた考えで手一杯なのだ。誰もあなたの目的を指し示すことはできない。ひとつだけ例外がある。何気なく投げかけられた言葉には真実があるということだ。思い出していただいたように、偶然に発せられた言葉はサインになる場合がある。サインであれば、あなたはすぐに感じ取ることだろう。誰かの口から出た前もって用意されてはいなかった言葉は、突如、あなたの魂に小さな火を点けることがある。もししれがあなたの目的に触れたのであれば、俄然あなたの魂は活気づき、「これこそ必要なのだ」とあなたに認識してもらおうとする。しかし、そういう瞬間とは、何かについて人があなたを説得しようとしたり、真実の道へと教え導こうとしているときのことではない。あなたが誰かに何らかのコメントをもらったり、アドバイスをしてもらったりしているときに訪れるはずなのだ。
 他人の目的は、あなたが他人の幸せに貢献するものでしかない。もし目的があなたの人生に好転をもたらさなければ、その目的はあなたのものではないことになる。本当の目的は、いつもあなたのため、あなたの幸福や成功のために作用するものだ。あなたの目的は、あなただけにとって必要とされる。もしその目的が他人の求めるものを満足させるためや、他人の幸福に貢献するために直接役立っているのであれば、その目的は他人のものということになる。振り子はもっともらしいあらゆる口実を使って、他人に使えるようあなたを強制しようとする。様々な手段が存在する。罪悪感を募らせている人々には、通常、「・・・ねばならない」とか「・・・という義務がある」という言葉が効力を持つ。そのような人々は、自分のまぼろしの罪悪感を作り上げることに慰めを見出す。「君の助けが必要なんだよ」という文句に動かされる人たちもいる。この文句はよく効くのだ。ご理解いただいているとおり、これらの方法は内的重要性や外的重要性によって保たれる。私たちは何よりもまず自分のために生きているのであって、誰に対しても何の義務も借りもないということを覚えておくべきだ。あなたは他人を幸せにすることはできない。しかし、もしあなた自身が不幸であるなら、彼らにちょっと嫌がらせをすることぐらいはできるだろう。
 他人の目的は魂の不快を引き起こす。通常偽りの目的は、とても魅力的なものだ。それに熱をあげた理性は、目的のありとあらゆるメリットを鮮やかに描き出す。ところが、目的がこれほど魅力的であるにもかかわらず、あなたのどこかが重苦しく感じられるのであれば、自分に正直になる必要がある。もちろん理性は何も聞こうとはしない。すべては素敵ですばらしいのだから。それではちらつく不快な気持ちは、いったいどこから来るのだろう。ここで前章からの重要な法則を繰り返すことにしよう。目的について考えるときには、それの持っている威厳性、近寄りがたさ、達成手段については考えないようにして、魂の快・不快についてだけ注意をはらう。では、すでにあなたは目的を達成し、すべては過去のこととなったと想像してみよう。気分はどうだろうか。良いか、悪いか。もし喜びに不安や重苦しい感じが混じっているとしたら、それは魂の不快である。他人の目的とつながる価値はあるのだろうか?あなたの目的ははるかに魅力的で一点の曇りもないずっと大きな喜びをもたらすだろう。振り子からの申し出をはねつけて、あなたの目的を見つければよいだけなのだ。
 もしこの世界であなたが占めている場所が満足をもたらさず、あるいは、不運な出来事が立て続けに起こるのであれば、あなたは折悪しく破壊的な振り子の影響下に陥り、他人の扉を通って、他人の目的へと続く道を進んでいるのだ。他人の目的を追いかけることは、多くのエネルギーと労力を必要とする。反対に、あなたの目的を達成することは、まるですべてがひとりでに起こっているようにすらすらと進む。他人の目的と扉は、いつもあなたに苦悩を背負わせる。自分の目的と扉を見つけ出そう。そうすれば、あらゆる問題は消えてなくなる。
 「もし私が何を欲しいのか自分で知らないとしたら、それをどうやって知ることができるのだろう」とあなたは言うかもしれない。それに対してはこうした質問をしてみたい。「一度でも自分でそのことについて真剣に考えたことがあるだろうか」と。不可解なことだが、大半の人々は振り子にかかわる仕事で頭がいっぱいで、まるでコマネズミのように走り回ることに忙しく、自分や自分の魂のための時間を見つけることができないでいる。彼らは、振り子の影響下に置かれたままの状態で、自分の人生にいったい何を望むかについて、走りながら、仕事の合間に、瞬間的に、深く考えることなく、結論を出す。しかし本当は、自分を深く掘り下げることなど必要はなく、ある時間ひとりになり、気持ちを落ち着けて明け方の星々のさざめきを聞くだけでよいのだ。
 もしまったく何もしたくないというのならどうだろう。それは、あなたのエネルギー・ポテンシャルが極めて低いことを示している。抑鬱状態や無気力状態は、生命を維持するだけで精一杯のエネルギーしかないことの証明だ。あなたはエネルギーを補強しなければならない。あなたの魂が何も欲していないわけがない。魂の声を聞いてあげる力があなたにないだけなのだ。


固定観念の打破

振り子についてはすでにたくさんのことを語ってきたが、また新たな例を紹介しよう。どうやって振り子はあなたが道に迷うように仕向けるかということについてだ。振り子がもっともらしい何かの口実を設けて、他人の目的をあなたに押し付けてはいないか考えてみて欲しい。たとえば、「善良なるあなたの魂」に助けを求めるアピールがある。あなたに示される対象は、絶滅に瀕する動物、傷病兵、飢餓に苦しむ子供たち、または世話を必要とする誰かであったりする。あるいは、どこかで自由のための闘争が繰り広げられていて、勇敢なあなたの参加を求められる。善良なるあなたの魂は、自分が必要とされているかの地へとただちに急行することになる。
 実はこれは、善良なる魂ではなく、善良なる理性だ。いや、決して善良ではない。魂の伴わない薄情ぶりを示しているだけだ。この場合の理性は、自分の魂のことを忘れ、ほかの人々の魂の救出に取りかかろうとしている。これは、災難の真っただ中にいる自分の子供を放り出して、よその子供を救うのと同じだ。善良なる理性は魂を箱の中に追い込み、自分の筋の通った考えだけを通そうとする。当然、あなたの心に空白が生まれ、それを何かで埋め合わせなければならなくなる。
 ここで振り子はありとあらゆる種類の埋め合わせ材料を提案する。そして、自分のエネルギーを他人の幸福のために使う様々な方法が載っているリストをあなたに示す。しかし、心の空白を満たすためといって、人は他人からの誘いにそれほど元気よく反応するものだろうか。広く受け入れられている固定観念を善意や思いやりに見せかけることの方がよほど心の空白になるというのが本当のところではないか。理性は心の空白を他人への心配によって補おうとするのだが、その一方で、魂の要求は満たされないままの状態であり続ける。振り子にとっては、他人について心配することを心の寛大さであると見せかけることが有益なのだ。
 このように振り子は非常に説得力のある固定観念をたくみに作り上げる。しかしそうしたすべては美しく装われたデマなのだ。あなた個人の魂はいかがだろう。本当にあなたの理性は他人のために自分の魂を放り捨てるだろうか。そんなことはあるはずがない。だから私はあなたに振り子との関係を断ち、あなたの魂を箱から出してあげるようにとしつこいくらいに勧めているのだ。自分を愛するようになると、自分の目的がわかるだろう。目的まで続く道で、あなたは真に善良で人の役に立つ多くのことを成し遂げるだろう。そして、多くの貧しい人々や不幸な人々に救いの手を差し伸べるのはもちろんのことだ。なぜなら、あなたの目の前にはそのための大きなチャンスが現れるからだ。
 けれども、まだ目的が決まらないうちは、どんな呼びかけに対してもほどほどの対応をすべきだろう。あなたの内的重要性と外的重要性は、最低のレベルに維持されていなくてはならない。次に述べる振り子どうしの闘いでは、振り子はさらなるエネルギーを必要とするのだ。
 (中略)
 振り子同士の闘いに参加し、あらゆる高潔な思想のために闘ってきた信奉者たちは、明らかにシャボン玉のようなものだ。内側には心の空白ができ、表面には見掛け倒しの重要性による虹色の膜をまとっている。このような苦労のすべてが信奉者たちの魂に必要だったのだろうか?
 あなたが定めた目的が具体的にあなた個人に役に立ってくれず、他人の役に立つのであれば、簡単な方法でその目的の真価を確かめることができる。もし他人への心配が外から押しつけられたものであれば、どのような方法によって押し付けられているかには関係なく、それは他人の目的だ。もし他人への心配が内側から、つまり心の奥深くから来るものであれば、それはあなたのものだ。たとえば、「ただ私は自分の子供たちの面倒を見ることが好きで、それがちっとも苦にならない」、あるいは、「私は自分の子供たち(孫たち)が大好きで、世話をしたり、成長する様子を見守り、一緒に喜びたいだけ」というケースがあるだろう。それもよいが、彼らが大きく育ったら、あなたは別の目的を見つけなければならない。
 あなた以外誰もあなたの目的を指し示すことはできない。あなたの目的を見つける方法がひとつだけある。それは、重要性を振り払い、振り子との関係を断ち、自分の魂に注目することだ。誰よりもまず自分を愛し、自分のことについて第一に心配するのだ。あなたの目的へと続く道を見つけるには、この方法しかない。
 理性の過ちは、目的達成の現実性をすぐに評価し、前もってすべての手段を計算する点にある。すべてが合理的でなければならないのだ。もし目的達成の現実性に疑問が出てくるならば、目的は根本から否定されるか、またはずっと先に延期されてしまう。こんな調子では、人は目指す人生ラインに決して同調することができない。逆に、達成手段をあれこれ考えていると、人は失敗の人生ラインへと同調してしまう。なぜなら、頭の中では、ありとあらゆる失敗のシナリオが展開されているからだ。通常のやり方では目的は達成できないし、奇跡も起こりはしない。実際にありふれた世界観の枠内では、達成困難な課題はまれにしか実現されないし、それは本当にそうならざるを得ないのだ。なぜなら、疑いを持っている人の思考放射のパラメーターは、どうしても目指すラインとは合致しないからだ。
 奇跡が起こるのは、あなたがおなじみの固定観念をたたき壊し、目的の達成手段については考えず、目的自体について考えるときにかぎられる。そうすると以前は非現実的と思えていたことが、突如、予期していない方角から姿を現す。予想外で、まるで偶然のように、目的達成のための極めて現実的な道が開けてくる。通常の世界観では、これは奇跡的な偶然の重なりに見えることだろう。こんな場合、理性は両手をあげてこう言うしかない。
 「こんなこと、誰も予想できるわけがないじゃないか!」
 トランサーフィンの観点からすれば、ここに奇跡は何もない。あなたは目指す人生ラインの周波数に同調し、所有する決意を得たため、外的意図がその人生ラインへとあなたを移動させただけの話だ。新たな人生ラインでは、これまでの人生ラインで思っても見なかったような新たな可能性が現れ、扉が開かれる。
(中略)
この世界におけるすべての悪意、残虐性、暴力は、人々の本性が低次元にあるからではなく、振り子の本性が貪欲であることから起こる。人間の魂は悪意というものを知らない。すべての悪意は、破壊的な影響を持つ振り子からの攻撃として、理性において具現される。
 振り子は、他人に対してだけでなく、自分に対しても暴力を用いるよう、人々を扇動する。「リスクを冒さぬ者は、シャンパンを飲めない」。こんな勇ましいスローガンはお好きだろうか。ここには、自分の幸せを賭けた勝負に出るか、それとも他人の考えに操られた人生を送るか、いったいどちらを選ぶのかという挑発が含まれている。もしその考えが他人のものではなく自分のものであれば、リスクには正当な根拠ができ、おそらくリスクを冒すに値するものとなるだろう。そうではなく、健康や命を危険にさらすような正当化のできないリスクであれば、それ以上に愚かな行為はないことになる。
 リスクを冒すような行動に人間を駆り立てるのは振り子である。なぜなら、リスクを冒そうとする者が味わう恐怖、緊張、興奮は振り子が大好物とするエネルギーだからだ。振り子は、偽りの勇気という固定観念を利用して、あるいは自分の具体的な信奉者の助けを借りて、生贄を手に入れようとする。「ほら、おじけづくな!できるところを見せてみろ!臆病者に見られたくないんだろ?」内的重要性で満タンになった人間は、自分が臆病でないことをみんなに証明しようとする。その人は偽りの固定観念の罠にかかってしまった。誰に何も証明してやる義務はなく、人形遣いの意見は無視すればよいということが、その人の頭には浮かんでこないのだ。
 自分の劣等感は、振り子の言いなりになるようにしてその人を強いる。正当化できないリスクを冒すことは、決して勇気を示すことにはならず、やはりこれも自分の偽りのコンプレックスを隠そうとすることに他ならない。理性は疑わしい固定観念に従って、自分の魂を粗末に取り扱う。小さな哀れな魂はさらに小さく縮こまり、向う見ずな理性が何をするのかと、おののきながら見ているばかりで、手を出すことはできない。魂にとっての理性とは、良くてせいぜい時分の役立たずぶりを家族に当たり散らす失敗続きの負け犬程度だ。悪くすると、酔っぱらって逆上し、自分の赤ん坊を殴る畜生にまで成り下がる。
 あなたの理性がしつこい幻影から目を覚ますことを祈る。理性には、魂という計り知れない価値を持つ驚くべき宝物がある。魂と理性をひとつに結びつけることで、あなたは本物の自由と力を得ることができる。振り子によって形作られた固定観念の打破を恐れてはならない。この世界における多くのものごとの本質があなたの目の前に明らかにされるだろう。あなたは、固定観念を打破することで、閉ざされていた扉を開けることになる
 

ヴァジム・ゼランド著「願望実現の法則」リアリティ・トランサーフィン2魂の快・不快の選択 第4章目的と扉 P274-294



引用が長くなっちゃったけど、まとめると・・・

 もうすでに1万字を超えているので、これはもう私はnoteにエネルギーを取られていると言っても過言ではないかもしれん。
まあでもそんなに苦痛ではないんだけど。
時間が取られて英語が勉強できないw

 ともかく、長くなった引用を読んでくださってありがとうございます。
途中はしょったところは、なぜ人は戦時に残忍になりうるかとか書かれてありました。

ざっくりまとめると、
・人には自分の魂だけがわかっている「自分だけの目的」がある
・その「自分の目的」に向かっているときは、物事がおもしろいようにすんなり運ぶし、たとえ達成までの道のりで苦労があったとしても、それさえもウキウキで楽しめる そして達成したとき超幸せ!
・「自分の目的」にすすめば、必ず喜びと成功がある
・けれど人が「自分の目的」に向かってスイスイ進むのは「振り子」にとって都合が悪い
・それは、人が「自分の目的」ではない「他人の目的」に向かって進むときの、障害てんこ盛りで辛く我慢を強いられしかも達成したところで結果はむなしい、この「ハードで救いのない状態」のエネルギーが振り子の大好物だから
・なので振り子はありとあらゆる方法で人を扇動し、流行や権威で引き付けたり、臆病者!と挑発したり、正義感や同情心をもてあそんだりして、人を「自分の目的」ではない、「他人の目的」へと誘導する
・どんなに苦労して達成したところで、「自分の目的」以外の「他人の目的」の達成の先に幸せが待っていることは決してない。絶対にだ。
・「他人の目的」は「魂の不快」を引き起こすので、魂の快・不快に注意しよう
・不安や重苦しい感じは魂の不快
・少しでも「押し付けられてる」と感じるものは「他人の目的」だ。そこから立ち去れ。
・「自分の目的」を決めないうちは、「手段」について考えてはならない。
・「達成手段」について考えず「目的自体を考えるときのみ」奇跡は訪れる
・人が説教を垂れてくるようなとき、「教えたるわ」みたいなときはたいてい魂に押し入ろうとしている無礼な行為だが、
例外的に人が何かコメントをくれるとかアドバイスをくれるときにポロっと口にしたことは「サイン」であることがあり、魂が「これやで!これやで!」と活気づく場合がある。気が付いてあげて!

・・・そんな感じで、「私がいなきゃ困るだろうから」とか「そんな薄情なことはできないし」「●●に申し訳ないし」「人様に何て言われるか」「あの権威のある人に頼りにされてる私かっこいい」「しんどいけれど、全然楽しくないけど、辛いけど、これを乗り越えれば・・・」みたいな選択と行動の先には、「自分の目的」も幸せもない。
 
 前回も書いたけれど、誰かの世話をすること、それが心から好きで苦にならないときならば可だけれど、それでも、その世話が終わったらやはり自分の目的を探すべきなのです。


「超常戦士ケルマデック」のエピソードを思い出しました

不可解なことだが、大半の人々は振り子にかかわる仕事で頭がいっぱいで、まるでコマネズミのように走り回ることに忙しく、自分や自分の魂のための時間を見つけることができないでいる。彼らは、振り子の影響下に置かれたままの状態で、自分の人生にいったい何を望むかについて、走りながら、仕事の合間に、瞬間的に、深く考えることなく、結論を出す。しかし本当は、自分を深く掘り下げることなど必要はなく、ある時間ひとりになり、気持ちを落ち着けて明け方の星々のさざめきを聞くだけでよいのだ。(P284)

あなた以外誰もあなたの目的を指し示すことはできない。あなたの目的を見つける方法がひとつだけある。それは、重要性を振り払い、振り子との関係を断ち、自分の魂に注目することだ。誰よりもまず自分を愛し、自分のことについて第一に心配するのだ。あなたの目的へと続く道を見つけるには、この方法しかない。(P289)

ヴァジム・ゼランド著「願望実現の法則」リアリティ・トランサーフィン2魂の快・不快の選択 第4章目的と扉 

 この「振り子の法則シリーズ」では、弱々しくか細い声の「魂」の描写がちょこちょこでてきて、そのいじらしさ愛らしさに抱きしめたくなるのですが、

 今のほとんどの現代人の日常の生活は、「魂」をフル無視し、「理性」に従い、「振り子」にぶん回されて「他人の目的」へと自分をすり減らしながら猛進していくもので、人の顔色を窺い無難に無難に他者から求められるあり方で生きた結果、「振り子」にエネルギーをささげ続け、
多くは、死ぬ間際には何の達成感も幸せな気持ちもなく、「人生こんなもんだったか」とむなしく振り返りながら死んでいく。
 
 「振り子」、ほんとにえげつないっす。
 
 そして今の私も、他の人たちと同じ。
 この1年かけて、だいぶ「これはないやろ」という理不尽なものはそぎ落としてきたつもりだったけれど、やっぱり「魂」の声を聞けているとはいえず、「自分の目的」を見つけそれに向かえているとはいいがたい。

 
 ところで、この部分をタイピングしていて思い出したのが、ケルマデック氏著の「超常戦士 ケルマデック」という本でした。
 
 この本は、「そんなことあるの?」とにわかに信じがたいエピソードがてんこ盛りなのですが、
 
 冒頭の「はじめに」の、一杯のおいしいコーヒーから始まるとんとん拍子のわらしべ長者みたいなエピソード、
そして「自分がいなければ家族が困るから」と結婚をあきらめていた女性が、ケルマさんのアドバイスに従って少しづつ行動したら、直接家族には働きかけてはいないのに、いつの間にか無理だと思っていた家族の問題が解決していたエピソードなど、

 「自分のかぼそい魂の声に耳を傾ける」、「自分の目的に進んでいるときはとんとん拍子にうまくいく」「手段を考えずに目的だけに目をむけて行動すると奇跡が起きる」というゼラント氏のアドバイスに共通するところがあるなと、ふと思い出しました。

 
 またいつか引用として紹介するかもしれませんが、
絶版の「振り子の法則」と違いこちらはまだ書籍が購入可能です。
 kindle化はされていないようです。

 
 この本も私は2018年年末には購入していて、
それ以前にある方からいわゆる「ポロっとでたアドバイス」があったことを踏まえて、翌年に本の中の実験を試してみたんだけれど、ダメでした。

 振り子によってがんじがらめの状態だったあの当時とは違い、
水風呂リセットで抜け出つつある今なら、いけるだろうか
私も、「明け方の星々のさざめき」を聞くことができるだろうか





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