北の白い雲 ー癌で死んだ父ー⑪医師への信頼
幼い頃、肉親の死を想って眠れないことがあっただろう。 漠然とした死への不安は人を憶病な日々へ追いつめてくる。 しかし、どうしようもない事実だ。 ありあまる幸福の絶頂にあっても、困窮の巷にあっても、それは確実にやってくる。 だれも逃げきれたものはいないという。 闇雲におそわれていた幼い頃の日々から、いま現実を見つめるときがきている。 死を冷徹にみつめてみよう。 必ず、有意義に生きろと声がきこえてくるだろう。 生きているものの責任はひとつしかない。 悔いなく生きることだ。
<ミニコミ誌」わからん」編集長>
思えば、私たちは医師を転々とした。父は、大したことではないと言ってくれる医師を探し、迷いに迷った。けれど、現実は父の思わぬ方へとすすんでいった。その運命は避けがたく向こうから迫ってくる感じだった。
父の日赤入院中、市民病院で手術を受けた見舞客が現われた時、私たちはまだ見捨てられていない、父はここを出て、市民病院で手術を受けるべきなのだ、この人がそのことを知らせに来てくれた、そんな風に思った。というより、そう思いたかったのかもしれない。
その翌日の3月16日(1981年)、私は、最初に父を診断し市民病院へ行くよう言った医師に今一度入院を乞うため医院を訪ねた。
医師は、半年前、父が市民病院に入院しなかった件に関して、自分自身反省したのだと言った。自分の誠意、技術を信じてもらえなかったこと、またそれは自分の説明不足だったのかと。それから、今回病院を移る事に関してはきちんと片を付けるよう言った。
あの時ー去年の9月の初旬、この医師に従って入院していればと思わずにはいられなかった。まわり道をしたけれど、これでレールの上に乗れるように思えた。「ゴールが近い」と医師は私に言った。
このあと、母と私は父の胃の手術をし日赤を紹介してくれた隣町の医師を訪ねなければならなかった。私たちは日赤を出ることの言い訳をしなければならなかった。母は宗教を持ち出した。その宗教団体が開いている病院へ父を入れるために広島を離れると。母は必死だった。母だけに悪役を演じさせ、私は側でただ突っ立っていた。
「宗教も必要です。どうにでもしてあげましょう」と優しい眼差しで医師は応えた。私たちはまたここにきて、一人の医師を裏切ろうとしていた。その医師の顔をまっすぐ見ることはできなかった。その時の私たちは自分たちの目の幅分の視野しか持つことができなかった。
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