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北の白い雲 ー癌で死んだ父ー⑰苦悩の深淵

幼い頃、肉親の死を想って眠れないことがあっただろう。  漠然とした死への不安は人を憶病な日々へ追いつめてくる。  しかし、どうしようもない事実だ。  ありあまる幸福の絶頂にあっても、困窮のちまたにあっても、それは確実にやってくる。  だれも逃げきれたものはいないという。  闇雲やみくもにおそわれていた幼い頃の日々から、いま現実を見つめるときがきている。  死を冷徹にみつめてみよう。  必ず、有意義に生きろと声がきこえてくるだろう。  生きているものの責任はひとつしかない。  悔いなく生きることだ。

<ミニコミ誌」わからん」編集長> 


父は際限のない苦悩にあえいでいる。それらの多くは、父に巣くった病魔のしわざなのだが・・・。もがけばもがいた分だけ、父は苦悩の泥沼に引き込まれていくようであった。

父はわがままな人だった。自己中心的であまり相手を思いやれる人ではなかった。

人は、自分のことのみにとらわれている時は、かえって自分のことがわからなくなるように思う。自分の殻を破って人に会ったり話をしたりすれば、自然と気持ちが楽になって、自由なありのままの自分を知ることができるような気がする。

父は、人の意見を聞くということがなかっただけに不自由だったと思う。死を予感する今、素直でなかったと後悔する日々は、相手のなかった父の生き方の結果なのだろう。

そして、父の娘である私にもその素因は確かにある。父の生き様は私の生き様でもあるのだ。父の死に様は私の死に様にもなり得る。

昭和56年(1981年)4月16日、病院へ向う道すがら、母と私は、父のこと、店のことを話す。

一昨年だったか、父は酔って電車のレールにつまずいて転んで、顔に怪我をした。それでも父は酒を減量しようとはしなかった。冬にも酔って寝て、ストーブに近づきすぎて向うずねに火傷をした。この時の傷が治るのに半年かかった。これらのことは何かの知らせだったのではないか。私たちは気づくべきだった。

私はその頃、落ちる所まで落ちればいいと父にひどく冷淡だった。母は穴蔵のような地下にいて、店がつぶれるか、身体がだめになるかのどちらかだろうと思いながら、自分の言葉に耳を貸さない父を見ていたらしい。

結局、店を売ることになった時、母が、「身体が元気だから良かったじゃない」と言うと、父は「それを言うたらおしまいだ」と返した。

病院を迷う歩くのは、このすぐあとのことだった。「そのおしまいになってしまった」と病院への道で母は言った。



記事のバックナンバーは、こちらのマガジンでまとめています。

https://note.com/monica50/m/m806a138c9288

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