北の白い雲 ー癌で死んだ父ー⑩
幼い頃、肉親の死を想って眠れないことがあっただろう。 漠然とした死への不安は人を憶病な日々へ追いつめてくる。 しかし、どうしようもない事実だ。 ありあまる幸福の絶頂にあっても、困窮の巷にあっても、それは確実にやってくる。 だれも逃げきれたものはいないという。 闇雲におそわれていた幼い頃の日々から、いま現実を見つめるときがきている。 死を冷徹にみつめてみよう。 必ず、有意義に生きろと声がきこえてくるだろう。 生きているものの責任はひとつしかない。 悔いなく生きることだ。
<ミニコミ誌」わからん」編集長>
皮肉なことにも開店予定日に父は入院宣告を受けたのだった。そして、くしくもこの日、店を売りに出したのだった。一日も営業することのなかった父の店を私は向かいの通りから眺めた。これで良かったのだろうか、結局、全てが無駄なことだったのかもしれない。新品のテントも新しいままで取り外されることだろう。
3月9日、父は日赤へ入院した。手術をされるのではないかという不安に父はかられていた。けれど、父の食道は気分やその日の状態によっては、うどん一杯平らげたりした。開店を果たせなかった無念はあったにちがいないが、父はどこかで安堵していたのかもしれない。しかし、ある時には、よく噛んで食べてもつかえて、一時間半にわたり苦しんだりもした。つかえた時にはお茶も水も通さずもどした。
父は精密検査を続けていた。検査終了後、放射線治療を受けることになっている。
父が入院して一週間後に、同室の患者に賑やかな見舞客が訪れた。彼自身市民病院の入院患者で、どうやら術後経過を見せびらかしに来たらしい。彼も最初は日赤の患者で放射線治療を受けていたが効果がなく、彼が設備技術の優れると信じた市民病院へくら替えしたと言う。縦横に入れられたメスのあとも鮮やかで、術後26日とは思えないほど元気だった。父は、食道を手術した人とあって、強い興味を抱いたようだった。「わしは食道の腫瘍だったんだ。腫瘍いうたらガンやで。あんたは?」ひやりとするその人の問いに、「潰瘍だ」と父はたよりなげに応えた。
その見舞客の出現は、私たちにとって衝撃的だった。あれほど手術を嫌がっていた父が、放射線をかけずにすぐに切ってもらおうかと言い出したくらいだった。放射線治療による後遺症、体力の衰弱を聞けばなおさらだった。その上、隣人の術後経過がよくなかったこともあり、私たちは日赤を出るべきだと考え始めた。
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