動物がカワイソウだから菜食主義?それってなんかおかしくない?という話
※今回はあえて口調を変えて投稿する。不快感につながるかもしれないけどご了承ください。
どうにも鼻持ちならないと思っていることがある。
近年菜食主義という概念が広まりつつあり、SNS上でも名乗る人を見かけることが少なくない。僕の知り合いにも一人、菜食中心の生活を送っている方がいる。
誤解しないでほしいことを先に書いておくと、僕は菜食主義者及び菜食主義を目指している方々を応援している。そのうちの大多数を尊敬もしている。
でも、それは逆説的に言えば『応援はするけど尊敬はできない』人も菜食主義の中にはいる、ということでもある(あくまでも僕の視点からのみで、ということを強調しておく)。
はっきり言って、僕は『動物がカワイソウだから菜食主義派』という意見があまり好きではない。もっと詳しく言うと、『動物がカワイソウだからという理由を本気で信じて菜食主義を周りに薦める』という行為が好きではない。
今回は、感情ではなくもう少し思考を深めて菜食主義を実行するのがいいのでは?という純度100%のお節介投稿だと初めに断っておく。
ざっくり言えば、(食料問題で持ち出されがちな倫理的な観点で言えば)植物が死んで食用になるのと動物が死んで食用になることには、大きな違いがない。『人間の心が動くかどうか』の差でしかない。
僕らが屠畜の瞬間を見て心を痛めるのは当然のこと。でも、イネの収穫を見て心を痛める人は少ない。どちらも命を絶つ行為であるにもかかわらず、である。
どうして動物だけが可哀そうなのか改めて一緒に考えてみてほしい。
僕たちと同じく地上を動き回っているから?
僕たち哺乳類と同じ赤い血が流れるから?
僕たちと同じように死が近づくと泣き叫ぶから?
人間と同じ要素が多いのが『可哀そう』の理由なら、人間側が罪悪感を感じない方法を選んでいるだけなんじゃないの?それは人間側の都合でしかないんじゃないの?というのが僕の意見だ。
感情論自体は全く否定するべきものではないと思っている。不要なストレスを負わないために人間には不可欠な脳機能でもあるからだ。でも、感情に従うことで倫理的に正しい行いになるかは別である。
特定の動物を愛護しようとする姿勢は一見立派なようにも見えるが、それは人間側から見た自己満足であり、自己防衛でしかないことは自覚するべきだと思う。
にもかかわらず倫理的に正しい活動をしているかのような態度をとる人はいまだに一定数存在する。その倫理に従えば、人間ならびに従属栄養生物は生きていることそのものを否定されてしまうことに気づいていない。
こうした意見に対して、少数ではあるが(だと信じたい)『植物も気にかけてあげているあなたは立派ですから、動植物を食べずに生きていってくださいね』なんて反論する人もいる。敢えて言葉を選ばないが、ガキみたいなこといってんじゃねえよと思ってしまう。
そして、筋道立てた論理と比べて感情に頼ることはあまり得策とは言えない。
その理由は、一言でいうと『感情で動く人間の言動はブレやすいから』だ。
『肉を食べない』ことに筋道たてた理論がなければ、一貫した行動をし続けることは非常に難しい。なぜなら、感情的な思考は論理的な思考の数倍速く、そして数倍強く脳に刺激を与えるからだ。そして、その感情の持続時間は非常に短い。
『野菜(穀物)を家畜に変換するよりもそのまま食べたほうが無駄が少ない』
『メタン等高い温室効果を持つ気体を発生させる牛の畜産は環境保護の観点で好ましくない』
『廃棄を有機肥料等の資源に再生するコストは肉よりも植物のほうが少ない』
『体質によるという説もあるが、植物だけで補えない栄養素は今のところ発見されていない』
『シンプルに宗教の制約』
『生活習慣病の発生率と消化による体への負担の減少』
などの理論や人間側へのメリット(これらの情報ももちろん自分なりに正しいのか調べないといけないが)をもとにした根拠と比べ、
『畜産動物がかわいそう』は一時の感情に過ぎない。
早い話が、理論はそう簡単には覆らないけど感情はすごく簡単に揺れ動いてしまうということ。多くの人が思い付きでダイエットを始めてもスイーツの誘惑に負けてしまうのと同じ。『動物がかわいそう』という一時の感情は、『フライドチキンおいしそう』『焼肉食べたい』というやはり一時の衝動に塗り替えられるからだ。
企業なんかは感情を煽動するプロで、商品を売り込むための知識と技術力を持っている。僕を含めて、消費者側から見ても売り込むための戦略だと気付くアプローチもあるけど、それ以外自分で思っている何倍も購買行動を促されている人がほとんどである。その購買のトリガーとして使われているのが消費者の感情を五感を使って揺さぶる手法だ。
要するに、すべて感情のみで動く人間は、感情を操られて企業に踊らされる。菜食主義を目指していても、大手飲食店の魅力的な広報戦略に負ける、ということ。
結局僕が言いたかったのは、感情論は結論ではなくツールとして使おう、ということ。もっと人間にとっての世の中を良くしていきたいのであれば、適切な方法をとろう。
僕には動物愛護団体の存在を否定することはできない。なぜなら、彼らは大衆を煽動するために必ず必要だからだ。時間を奪われやすい現代社会で多くの人を動かすには、一瞬で脳に強く作用する彼らの感情論は必須なのだ(ただし、動物を神聖視している宗教法人みたいなところは注意するべきだけども)。
でも、人を動かす側の人間が感情論に振り回されてはいけない。発信者として、合理性を常に持っていなければいけない。『動物がカワイソウだから菜食主義』なんてことはあり得ない。あったとしても、食わなきゃ生きていけない人間はそこまで気にかけてやれるほど偉くない。
今回の主張とも少し関係してくるけど、僕はこれから、趣味の狩猟についてもちょこちょこ発信していく予定だ。現段階では殺さなきゃいけない命もあるということも多くの人に知ってほしいと思っているので、そういった話もまあそのうち。
最後まで読んでくださってありがとうございました。
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