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日本の公鋳貨幣29「銭の購買力を保証するための撰銭」

前回はコチラ


帰国できない大内義興の苦難

前回、大内氏が応仁の乱による外圧から撰銭令を出した実例を紹介しました。大内氏としては、応仁の乱の軍事物資の調達や、領内の貨幣不足の解消が目的です。戦時措置として出された緊急例なので、この撰銭令、応仁の乱が終結してしまうと何かしら問題が起こります。

延徳4(1492)年、大内家領内の豊前国で、突如大内氏は悪銭の通用を停止します。悪銭がどの種類の非基準銭を指すのかは断定されていませんが、「悪銭もなんとかして使おう」と言う指針から一転し、「特定の種類の銭の使用を完全に禁止」してしまったのです。

この方針は、このあとも大内領内で続いていきます。大内氏領内での悪銭使用禁止令は、
・明応5(1496)年
・永正15(1518)年
にも出されており、応仁の乱終結後に何かしら悪銭の使用で問題が生じたと見られます。

その問題の理由は、「米」です。わかりやすい事例が永正15(1518)年に出されている三度目の悪銭禁止令。

応仁の乱の終結後、管領となった細川政元(細川勝元の息子)は、自分たちの思う通りの政治を行わない、第10代将軍・足利義材(後の義稙)への不満を募らせていました。明応2(1493)年、政元はついにクーデターを慣行し、義材を追放。自分に都合のよい第11代将軍・足利義澄を擁立しました(明応の政変)。

細川政元
政元と対立した第10代将軍の足利義材
政元に傀儡として擁立された第11代将軍・足利義澄

この政変は、細川一族の繁栄を決定づけました(京兆専制)。政元が唯一恐れたのが、応仁の乱の際に圧倒的な軍事力を示した大内政弘が追放された義材を擁立して上洛してくることでした。しかし、応仁の乱で領国の経営が不安定化していた政弘は、このあと暫く北九州各地を転戦することになったため、京兆専制体制は安定することになります。

室町幕府の権威が完全に有名無実となったこの事件を、戦国時代の始まりとする研究者も多くいます。

事件はむしろ政弘の息子である大内義興の時代に起こります。

大内義興


明応8(1500)年12月30日。諸国を亡命していた前将軍・足利義尹(2年前に義材より改名)が義興を頼って周防・長門を訪れました。義尹は自らを現在でも現職の将軍であると主張して長門に幕府を置こうとしており、義興も父の代から続く細川家との争いに勝利する手段として義尹を利用しようと考えておりました。

この動きは当然京の細川政元のもとにも伝わります。政元は、朝廷を動かし大内義興を朝的に指名。大内政弘の代に追い詰められていた九州の諸将だけでなく、周辺国の敵対大名28家に出陣命令が下ったのです。大内家はこれら全てと同時に戦うという、通常の大名家ならすぐに滅亡するような窮地に追い込まれました。

が、大内氏は名家であり、前将軍を抱え込んでいます。西と東と両面作戦を戦いながら、地道な和睦交渉でこのピンチを乗り越えていきました。

当面の敵との和睦に成功した義興は、永正元年(1504年)頃から上洛の具体的な構想を練り上げていきます。耐えに耐えたことで、チャンスも巡ってきました。義尹を追い出し、義澄を11代将軍に擁立して幕政を牛耳った細川政元が暗殺されたのです(永正の錯乱)。

政元には、実子がいませんでした。そのため、細川家内部では家督を巡る抗争が始まりました。大内義興への朝敵指定も有耶無耶となっていきました。これを畿内進出の好機と見た義興は、足利義尹の上洛を口実に九州から中国地方の諸大名に協力を要請。自らが総大将となる一大動員令を発したのです。

管領・細川家は内紛中、将軍も不在の室町幕府にこの動きを止めることはできませんでした。なんとか政元の養子のひとり、細川澄元と足利義澄を中心に纏まりましたが、大内義興は、澄元の義兄弟であった細川高国と内通し、味方に引き込んでいました。両陣営の対立・抗争は、西日本ほぼ全ての守護大名を味方につけた大内義興の圧勝。細川澄元と足利義澄らは、永正5(1508)年に近江へと落ち延びていきました(両細川の乱)

政元の跡を継いだ細川澄元。細川家をまとめるだけの政治力はなく、両細川の乱に敗れた
細川高国。両細川の乱に勝利し、細川家の当主となったが、実権は大内家に奪われる。弱体化した細川家はやがてその権力の全てを家臣であリ、細川政元を暗殺した三好家に奪われていく

こうして、大内義興は、細川京兆家に変わる天下人となりました。第11代将軍となった足利義尹は足利義稙と改名。義興に褒美として堺を与えようとしますが、義興はこれを固辞し、代わりに官位を求めました。実利より名を取るのは、この時代の室町武士として当然の行動です。

足利義稙への義理を果たし、名を上げることにも成功した義興は、すぐにでも不安定なままの領国経営に戻ろうと考えていました。が、天下人となった義興の力を義稙が離そうとしません。

結局、率いた軍勢を京に置いたまま、義興は細川澄元・足利義澄の残党群と10年も戦い続けることになります。

ようやく、京での争乱から大内義興が解放されたのは永正15(1518)年、すなわち、三度目の悪銭禁止令を発布した時でした。

都市が人を養うために必要なもの

大内義興引きいる主力軍が、周防・長門に帰ってくるのは、10年ぶり。もっというなら、父である大内政弘の時代から、大内氏は西日本各地を転戦していましたので、まとまった軍隊が帰ってくるのは、およそ20年ぶりのことでした。

何が起こるかと言うと、物価、特に食料品の価格の高騰です。

実は全く同じことが75年前の日本でも起きています。第二次世界大戦により、日本人は約300万人もの犠牲者を出した、と言われています。が、それでも、日本政府が想定していたよりも多くの日本兵が生き残っていました。戦地から日本へ戻ってきた彼らに、日本政府は、戦地での給料と退職金、場合によっては傷病保険を支払わなければなりませんでした。日本中に大量の貨幣が溢れたのです。

対して、生産設備がほとんど破壊された日本には、これだけの人数を食べさせるだけの食料がありませんでした。お金は有り余っているのに買う物がない。結果、食料の値段が上昇し、円の価値が極端に減少するハイパーインフレーションが発生しました。

大内氏の領国内でも、同様のことが起こりました。ある日を境に都市の人口が数万人も増えるのですから、米が不足し、食糧の価格が上昇します。当然貨幣価値は下落していくため、長い間戦地を転戦した兵たちが、街で食料を買えないという危機は、ただでさえ当主の長期不在により不満が溜まっていた領国内や家臣間に不穏な空気を生じさせました。

そこで、大内氏が講じた策が、悪銭の使用を禁止することでした。銭の総量を減らして、その銭の価値を高め購買力を担保しようという政策でした。これにより、大内氏の家臣たちは、街の中で食料を購入できないという事態からは逃れることができました。

この策は諸刃の剣です。精銭不足による不満というものは、依然として進行中なのですから、瞬間的な物価高の危機を脱した後は、確実に貨幣高の歪な経済状況が襲ってくるからです。

が、ある意味当時の社会的な空気感が、こうはならないという確信を大内氏にもたらしたようです。なぜなら、15世紀〜16世紀は間氷期にあたり、全国的な凶作が続いていたことと、室町幕府の機能不全により全国各地の戦乱が大きくなってきたからです。

食料はこの先ますます不足していく。そして、戦乱はさらに拡大化していくという社会の共通認識は、16世紀の頭ごろから全国各地の撰銭令に、『悪銭を取引現場から除く』という新たな効果を与えていったのです。

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