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大河ドラマから見る日本貨幣史8 『戦国時代のみたらし団子の個数』

長らく更新をさぼってしまっていました。というのも在宅ワークならではの諸事情により、「決定権を持つ人も在宅ワーク」→「決定権を持つ人が捕まらない」→「スケジュールが後ろ倒しになる」というコンボを食らっていたからです。なので通常よりもめちゃくちゃ忙しい日々となってしまっております。

いちおう、ちゃんと録画をして大河ドラマは見ています!

さて、麒麟がくるの劇中では以前も団子が出てきてちらりと記事を書いておりました。その時、「もしかしたら語れるのでは」と思って期待しておりましたが、期待通り第15話で、「みたらし団子」いわゆる「串団子」が、戦国時代ならではの形で出てきました!串団子が現在の形になったのは、とある貨幣の存在が大きく関わっております。今回はその話を。

まず、前提として、団子にまつわる基礎知識を解説しておきます。日本人が現在のように団子を食べるようになったのは、戦国時代からというのはご存知でしょうか。柳田国男によると元々団子は神饌を模した保存食であり、本当に食べるものがない時や、特別な祭礼の場で食べるものだったそうです。

ところが室町時代、京の武家・公家のあいだで茶の文化が生まれ、茶請け菓子が発達していきます。この時、それまで神饌でしかなかった団子が、ちょっとした菓子として食べられるようになりその調理法も発達していきました。

さらに、応仁元年(1467年)の「応仁の乱」で京が戦場になると、京に暮らす守護や公家が本国(地方)に避難しました。彼らは京での暮らしを本国でも続けようと、京文化を地方へ伝え日本全国に小京都と言われる町が生まれました。それまでただの農村でしかなかった地方に文化が芽吹いたのです。もちろん茶の文化や団子を菓子として食べる文化も広がっていきました。

閑話休題

さて、麒麟がくる劇中で描かれていた串団子を見て何か違和感を感じませんでしたか?

実は、劇中で食べられていたみたらし団子は、一串5個だったんです。三色団子など特殊な場合を除き、日本の串団子は現在1串4個でつくられることが殆どです。嘘だと思ったらスーパーやコンビニのみたらし団子を見てみてください。4個になっているはずです。

もし、5個串にさす場合は、わざわざ「京風」と呼んだりします。

これは、団子が神饌であったことの名残です。かつて、団子をそれぞれ「頭」「右手」「左手」「右足」「左足」に見立てて下賀茂神社に奉納するという風習があったのです。なぜ現在のような1串4個になったのでしょう。これには、劇中から約200年後に登場したとある貨幣が関係しております。

その貨幣がこれです。

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ただの「寛永通宝」ではありません。

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常の寛永通宝よりも直径が約3mm大きく……

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裏面に波模様が刻まれています。

この貨幣は「波銭」と呼ばれるもので、明和5(1768)年から発行されました。この銭は日本の貨幣史において非常に重要な転換点とった1枚です。本貨幣は奈良時代から18世紀にいたるまで、1枚=1文しか存在しなかった日本の貨幣の計数ルールを改め、1枚=4文で通用しました。(画像の波銭は幕末の安政年間につくられたもので、波線の数が少ないですが、これも1枚=4文で通用しています)

中国などでは紀元前から、1枚=10文に相当する当十銭といった大型の銭は作られていたのですが、日本人は1枚10文の大型銭であっても1枚=1文として使用させていました。たしかに、子どもでも簡単に計算できるので便利かもしれませんが、お釣りを渡す側(商人)にとっては甚だ不便です。寛永通宝が全国へ流通した江戸時代、「1文」の次に小さな単位は、(秤量貨幣銀貨を除くと)「1朱」でした。江戸幕府の定めた公定歩合に従うなら、1朱=250文になります。つまり、100文のものを買うのに1朱金1枚で支払った場合、お釣りの寛永通宝は150枚も必要だったのです。

これではいくら小銭を用意していてもすぐに底をついてしまいます。そのため日本は、鎌倉時代以降明治4年まで、基本的には国内で1文銭が不足する「銭貨高物価安」のデフレーション経済に支配されています。いわゆるつけ払い文化も、この釣銭不足が影響していると考えられます。それでもなぜ、1枚1文のルールを採用し続けたのかというと、これはもう、日本の中央政権が貨幣を発行できるだけの力を持てなかったからとしか言いようがありません。流通の信用に足るだけの貨幣を発行できる力をもった政権ができなかったため、日本は輸入した中古の銭に頼りきっていました。輸入銭は、品質も、書かれている文字もバラバラですので、複雑な貨幣制度を用意することができないわけです。結局、ようやく江戸幕府が統一政権を成立させたころには、銭1枚=1文は動かしようのない事実として定着してしまっていました。

波銭の登場はこの状況を打開しました。1枚4文の銭貨なら、150文のお釣りは37.5枚で済むわけですから、用意しておく必要のある釣銭の枚数は格段に減り商人は助かりました。また、何百枚何千枚も懐に銭を忍ばせなければならなかった庶民にも好評でした。江戸時代中期から、

1杯16文のかけそば

1足8文の草履

など、4の倍数で売られる商品が急増しました。

そして、この波に1本=5文で売られていた団子がさらされます。それまで団子は1本5文で売られていました。この価格設定は、団子1個を1文にすれば分かりやすいだろうというそれだけでした。ですが、波銭が普及したことにより、波銭1枚+通常の寛永通宝1枚で代金を支払う人が激増しました。なかには、直径の大きい4文銭の後ろに、1文銭を置いたふりをして食い逃げをするような人もいたようです。支払いの手間を省き、間違いを防ぐため、団子商人は1串4個の団子を4文で売るようになりました。この価格設定は幕府のおひざ元である江戸から全国へ広まっていきました。

なお、当時の史料によると、団子の個数が減ったことは当初江戸の庶民に不評だったようです。客からの不満を避けるため、5個分の粉を使って大きな団子を4つつくり、それを焼いていた店もあったそうです。

当時の風俗を記録した本には、握りずしや豆腐など江戸の庶民が食べていた食料品が、関西圏に比べ軒並みでかいという記録が多々あります。もしかしたら江戸っ子というのは我々が思っている以上にケチだったのかもしれません。

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