日本の公鋳貨幣23『義満財政の誤算』
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義満死後急速に衰退する室町幕府
前回、室町幕府第3代将軍・足利義満が、いかにして財政を再建したかというお話をしました。規制がなかった中世の金貸しを保護するという名目で、そこから税金を取っていたこと。金は徴収するが、権力を抑えるべく金貸しの支持母体である古い宗教勢力ではなく新興の禅宗を特に篤く保護したこと。さらに、メンツを捨て明の冊封体制下に入ることで貿易を開始し、莫大な富を築いたことなどです。
これにより、確かに室町幕府の財政や権力は回復しました。が、義満個人のカリスマ性によったともみられかねない政権運営は、内に反義満派とでも呼ぶべき勢力を生むことになります。皮肉なことに、義満政権のやり方に一番不満を持っていたのが、実の息子である足利義持でした。義持は、保守的で武家的な威風を尊ぶ気風の持ち主であったようです。父と決定的にぶつかることこそなかったものの、義満の死後は、彼の業績を否定するような行動を取り始めます。
↑足利義持
特に、一部守護や公家たちから評判の悪かった日本国王の号と明の冊封体制下入りは反対の声が大きく、当然ですが義持も父が必死で築いた明との貿易ルートを自らの手で閉ざしてしまうのです(もっとも義持が否定したのは、冊封体制に組み込まれるというその関係値であり、実利までは否定しなかったという説が現在は主流です)。
なお、義満が整備した室町幕府の財政は、かなりの割合を日明貿易に頼っております。
この朝貢貿易の一方的な停止は明を激怒させたようで、当時即位したばかりの永楽帝から、朝貢を再開するようにとの要請がなんども日本に来ていますが、義持はこれを断っています。
義持が強気に出られたのは、当時室町幕府が明から輸入をしていた薬種類の輸入ルートが、琉球を通じて確保できていたからだとされています。生薬類の多くは南方原産ですから、琉球を通せば直接輸入することができたのです。
こうして、早速室町幕府の収入の大黒柱が折れてしまいました。
さらに、義持の時代は義満により押さえつけられていた全国の守護が、幕府に対して反旗を翻し始めます。きっかけは応永17(1410)年。南朝最後の天皇であった御亀山上皇が吉野へ出奔したことでした。この出奔を機に、南北朝合一後各地に潜伏していた南朝方の武将が一斉に蜂起しました。
後亀山天皇自体は幕府の説得もありわりとあっさりと帰京するのですが、この時に、室町幕府に敵対する諸武将がまだ存在することが明るみに出ました。幕府の支配体制は、まだ盤石ではなかったのです。
応永23(1416)年、それを証明するかのように、関東で「上杉禅秀の乱」が勃発します。
室町幕府はその権力の弱さから日本全土の直接支配を諦め各地に地方行政府をつくっています。特に、源氏政権の発祥地である関東は重要な地と考えられており、鎌倉府という東国支配専門の足利将軍を用意していました。
↑鎌倉府跡地
この鎌倉府のトップを「鎌倉公方」といいます。もちろん、就任できるのは尊氏から続く足利将軍の一門です。血筋的には室町将軍と対等といっても差し支えがないため、幕府は鎌倉府の反乱を常に恐れていました。そこで、表向きは鎌倉公方の執事であるが、実質鎌倉府の監視役である「関東管領」という役職を用意しています。
関東管領は上杉家が世襲していました。上杉家は扇谷上杉、山内上杉、犬懸(四条)上杉の3氏族に別れていました。もっとも力を持っていたのが北関東から奥州にかけて勢力を伸ばした犬懸上杉家で、関東管領も犬懸上杉家が世襲していました。ところが、この犬懸上杉家の上杉氏憲(禅秀)と、新たに4代目鎌倉公方に就任した足利持氏の反りが合いません。氏憲は持氏の父である足利満兼の時代から鎌倉府に仕えていましたので、年長者として持氏に意見具申を繰り返し、嫌われてしまったようです
足利持氏は、上杉氏憲を冷遇し彼の対立者であった山内上杉家の上杉憲基を重用し始めました。応永22(1415)年、氏憲がこの扱いに抗議すべく関東管領を辞職すると、持氏は慰留するでもなくなんとお気に入りの憲基を関東管領職に指名してしまったのです。
このままでは犬懸上杉家が山内上杉よりも弱体化してしまうと焦った氏憲は、第2代鎌倉公方であり足利持氏の叔父にあたる足利満隆に相談します。満隆も、持氏が政務を執り行い始めたことにより自身の勢力の低下を恐れていました。
こうして応永23(1416)年、関東の有力な武将のほとんどを味方につけた上で、上杉氏憲と足利満隆はクーデターを実行し、足利持氏を鎌倉から追い出してしまいました。
驚いたのは京の足利義持です。鎌倉府は幕府の東国支配のトップです。それを勝手に追い落とされたのだから面目丸潰れです。すぐにでも足利持氏支援軍を派兵したいところですが、自体はそう簡単ではありませんでした。
実は、室町幕府と鎌倉府は成立した当初からすこぶる仲が悪い。観応の擾乱のころは敵味方に分かれて戦っていましたし、本来ほぼ同等の家格なのに、方や都で方や関東の片田舎とその待遇の格差に差がありましたから、鎌倉府には「隙あらば京へ攻め上って将軍に成り代わってやろう」という気配が常に漂っていました。
だから、足利義持は介入に消極的でした。ところが、事態は思わぬ方向に転がります。義持には将軍の位を争った異母弟の足利義嗣がいました。妾腹の子でしたが、父・義満はが溺愛しており、世間的には義持は強引に弟から将軍位を奪い取ったように見えていました。
↑足利義嗣
そんな弟が、突然出奔し、出家したという知らせが入ったのです。
この行動が、義持には上杉氏憲と義嗣が共謀し幕府の混乱と分断を煽っているように見えました。応永23年10月。義持は、駿河今川家と山内上杉家に、犬懸上杉家と足利満隆の討伐を命令。同時に義嗣も捕縛しました。
一時は鎌倉府を攻め落とした上杉氏憲と足利満隆でしたが、幕府軍の本格介入により、攻め落とされます。犬懸上杉家は上杉一族の中で衰退し、やがて越後の僻地へ追いやられていくことになります。この乱で重要なのは、関東の有力な諸将が犬懸上杉家・足利満隆側についていたということです。関東の武士と幕府の考え方に埋められない溝があることが判明しました。
幕府は、関東管領の力を使ってでも直接関東政策に口を出さなければ、くすぶる戦乱の火種は消せないと考え始めました。東国の支配者である鎌倉公方にとって面白くない状況です。足利持氏も徐々に幕府と対立していくことになります。
特に、乱の戦後処理にあたって義持と持氏の考え方は正反対でした。「誰が味方で誰が敵かはっきりしない状況で、厳罰を与えるのはかえって混乱を生む」と考え、ある程度の恩赦を与えるべきという方針だった義持に対し、持氏は「自らを追い落とそうとした家を全て滅ぼすべき」と訴え、行動に移してしまいました。
関東は未曾有の大混乱へと陥りました。
本来、室町幕府としては、鎌倉府に東国を支配してもらうことで、全国支配のコストを二分できると考えていたはずです。が、こうなってくると室町幕府として、関東政策に首を突っ込まざるを得なくなってきます(持氏は、上杉氏憲に協力した疑いがあるとして、室町幕府から給金をもらって関東で働いていた京都扶持集まで処分していました。義持の直接の家来を鎌倉府が処分した形です)。
想定外の支出が増大したことで、室町幕府は、義満時代とは一点、一気に財政の危機を迎えてしまったのです。
大きな矛盾が首をもたげた酒屋・土倉税
貿易によるあがりが期待できなくなった義持政権が頼るべき収入源は、酒屋・土倉にかけていた税金でした。金貸しから納入される税は、たしかに安定していました。が、この税はこの当時の為政者の政治信条ととてつもなく食い合わせが悪いものであったことが、徐々に分かってきます。
過去、室町時代に入ると日本の土地支配のなかで氏族という考えが失われ、村落共同体を一つの塊とした"惣”が発展したと書きました。惣は、独立自治とまでは言いませんが、物を言う貧しい民衆の総体です。
民衆がなぜ貧しいのか。税が多いのもさることながら、「借金の利子が多いから」です。惣の人々は、皆で団結して生活の改善のため、借金の棒引きを要求し始めました。借金の棒引きを命じる法令のことを「徳政令」と言います。
徳政令は、元々鎌倉時代の元寇後に報酬を得られず貧困化した武士たちを救うために出された借金の棒引き令でした。“徳政”というかっこいい名称は、ただ、借金を帳消しにしろと命じるのでは格好が悪かったので、「これは為政者が人民のためを思い“徳のある政”を行ったのだ」という言い訳として付けられています。
惣の人々は、この為政者の理屈を逆手にとりました。
将軍や守護の代替わりのたびに、新たな為政者に徳政を求める一揆を起こしたのです。こうした一揆は、年貢の減免を求める一揆とは区別され、「徳政一揆」と呼ばれます。徳政一揆には、土倉・酒屋を襲って借書を焼いたり質草を取り戻すものと、幕府や守護などの地方権力に徳政令の発布を要求する2つの手段がありました。
↑正長の徳政一揆を起こした理由の文言が刻まれている柳生の疱瘡地蔵
一揆を鎮圧するのにも、兵士は必要です。兵士を用意するのに金はかかります。このことは幕府を悩ませましたが、彼らが求める徳政の要求を飲むだけで、兵は不必要となるうえ、善い将軍であることをアピールすることができました。。そこで、室町時代中期から、定期的に徳政令が発布されることになりました。
徳政令が発布されると困るのは、酒屋や土倉です。蔵を壊され質草ごと奪われた上に、借金をなかったことにされてしまうのですから売り上げが上がらなくなります。
売り上げが上がらないと何が起こるのか。幕府に納めるべき酒屋・土倉からの税が減少します。こうして幕府は、貿易も酒屋・土倉への税も失うこととなりました。
二進も三進も行かなくなった室町幕府は、永享4(1432)年、第6代将軍足利義教の時代に日明貿易の再開を宣言します。しかし、この頃になるとすでに幕府の資産は底をついていました。
室町幕府は、自分の財力で貿易船団を用意することができず、有力な守護や商人に勘合符(日明貿易の認可証)を売却して幾ばくかの銭を手にすることしかできませんでした。
ちなみに、日明貿易船団の派遣費用に関しては永享6(1434)年の派遣記録をもとに、過去に出した本で試算したことがあります。貿易船団派遣費用の内訳は船を借りるための費用が300貫文、船員の人件費が400貫文、食糧や薪水が500貫文、船の修繕費が300貫文となっております。ここに、明の皇帝への献上物や通常の輸出品を加えるとなると最低1万貫文以上は必要だったでしょう。
この時代の1貫文というのは、兵士一人の年収と言われています。年収を500万円として計算すると一度の派遣で約500億は必要だったでしょう。が、日明貿易は、日本側への歳入が歳出の10倍近かったとされています。500億円が用意できなくなっていたことにより、4,500億円の粗利を失った。
これが、室町幕府弱体化のもっとも大きな要因であったと、私は思いますがいかがでしょうか?