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ニュースは、私たちの社会の“弱いところ”を見せてるんじゃないか

朝起きてLINEを開くと見たくもないLINEニュースの見出しが目に入る。連日、世を騒がせている某テレビ局の醜態ぶりにまたかと嫌気がさすのに、おおよそ同じ内容が書かれた別タイトルの記事をクリックしてしまう。いやな話だと言いながら、私たちは一体何を見てるのだろう。


ニュースは、社会の写し鏡だと思う。私たちが社会でリスペクトし合いながら生きていく上で足りない視点を学び直し、アップデートするチャンスだ。というか、そう思うようにしないと毎日心がもたない話ばかり。


話が少し遠回りするが、私は中高時代を女子校で過ごした。驚くと思うが月数回はクラスの誰かしらが今朝電車で痴漢にあったことを笑いながら話す。当たり前のように身近に性暴力があった。私も聞きながら笑っていたけどおそらく心の防御のため。そうやって痛みや違和感を感じないように生きてきた人、たぶん少なくないと思う。


だから想像しかできないけれど、きっと今回のニュースの前にも、同じようなことで傷ついてしまった方がいたのかもしれない。すでに最悪だけどもっと最悪だ。


んでもって考える。
私たちはこんな地獄から何を学ぶべきなんだろう。



私たちはおそらく「自分の身体は自分のものだ」「それは大切にされるべきだ」という言葉を本気で信じていない。だから自分の許容範囲を超えられたときに「NO」と言っていいのに、その言葉に力があるかわからなくて諦めてしまう。これって誰のせいですかって、100%、いや1000%、傷つけてくる人間や組織に問題があるのだけど、別の言い方をすれば「NOが言えない社会」こそが私たちの弱さだ。


「NOを言える社会」は「性教育」が鍵かもって話

ここから小難しい話になるけど、ぜひ読んでいただけると嬉しい。


なぜ「NOを言える社会」は「性教育」が鍵なのか。そもそも性教育が何だって話だが、日本の学校現場でよくイメージされる性教育といえば突然クラスを男女で分けられ、「第二次性徴」「安心安全なセックス」などの話を聞かされる。そこにあるのは「夏休みあたりに問題が起きないように」という大人側の勝手な都合だったような気もする。(保健の先生ごめんね)


でも、ラッキーなことに私は知っている。本来の性教育が教えることは、まずは自分の身体と心の形を知り、自分の許容範囲を学びながら他者と関わり合う方法を学ぶ学問であるということ。
この学問の最大の目的は子どもたちがきちんと「NO」を言える大人に育つことだということ。でもどうだ日本。私たち、「YES」ばかりうまくなって、肝心の「NO」言えてないじゃないか。


私たちは生きていくなかでいろんな人間関係を作っていく。恋人や友人だけじゃなくて、家族も基本は他人だ。自分の許容範囲を超えてくる人間なんて、そこらじゅうにいる。だからこそ私たちは「NO」と言える大人にならないといけない。そしてその「NO」の声に力があると信じるために、「自分の意志は大切にされている」と日々感じられるために、性教育はある。


ニュースは、社会の写し鏡だ。重い痛みのなか「しんどかった」と呟いてくれた声を単なるニュースで終わらせず、私たちが弱さを学び、アップデートするきっかけにつなげたい。

たった10数歳の少年少女が日常的に性被害にあうことも、大人同士が同意なしにプライベートゾーンを越えてしまうことも許しちゃいけない。それはその人たちが「誰かにとって大切な子ども/人間だから」ではなく、その人の身体が、当たり前にその人のものだからだ。アップデートしていくぞ。

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