「元気ですか?」に対する反面教師
イタリア語を勉強し始めたばかりの頃、「元気ですか?」という表現を習い、毎回、授業に出席する度に、先生に「こんにちは、元気ですか?」と尋ねられた。
最初のうちは、「はい、元気です」と応えていたが、いつも本当に「元気です!」と言い切れるほど、元気なわけではない。
たとえば、それが風邪を引いているとか、頭が痛いというように、身体的な不調ならば、そう言えばよいのだが(もちろん、相手によって告げてもよいか否かはあるだろけれど)、そうではなくて、気持ちが今ひとつなのに、表面上「元気です」と言い続けるのはウソだなと。
そこで、「まあまあです」と応えることが多くなった。最初の1、2回はそれでも問題なかったが、ほどなくして、「君はいつも“まあまあ”じゃないか!」と、怒っているというわけではないものの、なんというか普通に「まあまあ」では見逃してくれない印象を受けた。
(実際に、この先生は気が短いところがあった)
でも、日常というものは、たくさんの「まあまあ」の中に、たまーに良いことがあるという感じなのだから……と思っていた。
それで、イタリア人はそんなにいつも元気なのかというと、実はそうでもない。
もちろん、日本人がイメージするような、明るくて元気でおしゃべり好きな人もいるが、悩みがちでおとなしかったり、些細なことに敏感な人もたくさんいる。
イタリアでは、知っている人に会ったり、連絡を取る時は、挨拶と元気かどうかを尋ねるのがセットのようなものなので、相手が元気がどうか尋ねないというのは、常識的には失礼な気分になる。
(本当に元気かどうか知りたいかは、また人によるだろうけれど)
だから、自ずと「元気ですか?」と口をついて出てくるのだが、毎回、「元気ではない」「疲れている」「まあまあ」という返答を返す人と接していると、何度目かには、きっとまた元気ではないのだろうな……と予測でき、尋ねてもよいのものなのだろうか?という疑問が湧いてくる。
そうかと言って、建前の「元気です」を言ってほしいとも思えないのだが。
自分がその返答を受け取る側になって、ようやく、前述の先生の気持ちが分かった。
いや、今までにも「元気ではない」と言う人がいなかったわけではなくて、言ったとしても毎回ではなかったから、あまり気にならなかったのだろう。
そして、わたしが尋ねられた際の返答にも、当初と比べると、メンタリティの変化とバリエーションができたので、なおさらそのように感じるのかと思われる。
「元気ですか?」という質問と、それに対する返答だけでも、考えさせられるものだ。
日本だったら、毎回、元気かどうか尋ねないことも多いので、起こりにくい疑問かもしれない。