深夜の私と、遠くのあなたのために
なんで小説書くんですか?
書くのってやっぱり楽しいんですか?
と、よく聞かれる。
わたしは
「いいえ、九割九分は苦しいばかりですけど」
と答える。
そうすると相手はオヤオヤと訝しげな顔をする。この女、マゾヒストなのかしらん。あながち間違いでもないーー文章を書くことは己を削り現すことだから、その多くの作業に痛みを伴う。この表現でいいのか、この書き方で伝わるのか、この構成で退屈ではないか、そもそもこんなものしか書けない自分は酷くつまらない人間なのではないかーー執筆中幾度となく陥りがちなこの悪循環を、自傷行為と言わずしてなんと言おう。しかし、わたしはこう続ける。
「でも、残りの一分はめちゃくちゃ楽しいんですよね。書いているとたまに、目の前で映画が上映されて、わたしはただそれをあまさずに書き起こせばいい瞬間がやってくる。そういうときは最高に楽しい。絶対脳から変な汁が出てるんでしょうね(笑)。
だから、あんな楽しいことはやめられませんよ。仕事にできなくても、ずっとやり続けるでしょうね」
そう言うとき、わたしがよほど恍惚とした表情でもしているのか、聞いてきた相手は大抵「いいなあ」と言う。
それは儀礼的な相槌としての「素敵ですね」という響きのときもあれば、「そういえば自分もクリエイティブな趣味が好きだった」と思い出すときの「良いな」でもある。わたしは微笑む。
何のためにこんなに苦しんで書くの、と聞かれることがある。自分に。
文章を書くのが好きだから。イエスだ。
物語を考えるのが好きだから。イエス。
自分で世界を作れるのが好きだから。イエス。
ーー格好つけてんじゃないよ、もっと核心を見ろ。
文章を褒めてもらうのが嬉しいから。イエス。
あの一分の快楽のために。イエス。
わたしが考えた世界は誰にも奪えないからーーこれもイエス。そして、私の中のわたしが呟く。
「自分がどんな人間か知りたいんですね」
その通り。
わたしは自分のことを知りたくて書いている。文字という非常に不完全なものを連ねて、そこに滲み出る自分を知りたがっている。なんという自己愛。なんという独り善がり。しかし文字とは、他者に伝え読まれるために発明されたものだ。であるなら、どうせ書くなら、読まれたい。そして何かしら人の感情を動かせたなら、なお良い。書いたかいがある。生きていたかいが。なんと醜い自己愛!!
ーーでも、同じような人が、世界に何人かはいるのではないかしら。深夜の部屋で光る板を見つめながら、ふと考える。
自分のために書くけれど、あわよくばそれが他の人のためにもなればいいな、なんて思っている人が。
もしいたら、握手をしましょうね。画面の向こう側から。そうしてこの修羅の世を生き延びましょうね。人生を愛するものは小説なぞ書かない、なんて話がありますが、それは本当にわたしもそう思うのですよ。現実は、物語より、ずっと残酷でしょう。
そしてもし、そうでなくても、ここまで読んでくれたひとがいたら、やっぱり握手をしましょう。画面の向こう側から。
これを読んでくれた時間が、あなたのひとときの、慰めになりますように。