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月曜日の図書館2 モーメント

モーメントを考えよ、とN本さんは言う。地球上のあらゆるものはモーメントから逃れられない。超能力が備わっているのでないなら、あなたもまたその法則の内側にある、と。
実は不思議な力を使えることがままある、と思ったが、自分の意思でコントロールできるわけではないので、言われたとおりに函を少しばかり傾けた。看板の上で、函は心持ち前のめりの姿勢になっている。養生テープで固定し、そっと手を離すと、はたして函は落ちることなく看板の上にとどまった。モーメントを制圧したのだ。

夏目漱石全集を買ったらついてきた函である。しっかりした造りなので捨てるのは忍びない。上から注意文を書いた紙を貼って、掲示物として再利用することにした。既製の看板に一文付け足したかったのだ。持ち込めるかばんのサイズは、これくらいです(A5)。

館内は手づくりの掲示物であふれている。付け足し、付け足しで増えていったそれは、秘伝のタレみたいな深みや趣きは全くなく、中には賞味期限が切れたものや風化して壁の一部となっているものもあり、見苦しいことこの上ない。かく言うわたしもまた、そこに新たな罪を重ねるのだ。

いつか全部ひっぺがす。

事務室の天井に名鉄電車がぶら下がっている。ペーパークラフト好きのS村さんが数年前に作って以来、放置されていたものだ。DとN本さんに何をしているのか聞くと、落ちないか実験している、と言う。モーメントの実験だ。ケーブルを天井に這わせるのに、この金具で大丈夫かどうか、同じ重さの名鉄電車で確かめているのだそうだ。電車は今のところ、おとなしく吊られている。
写真を撮っていると、Dがおもむろに自分のネクタイを見せてくる。黄色の水玉模様かと思ったが、よく見ると小さな金鯱だった。先っぽの方はエビフライに変わっている。
夏にわたしがたぷの里(お相撲さん)のTシャツを着ていたとき、Dはおっぱいが描かれている服を職場で着るのはやめろ、と言った。

本当なら適切なお金を払って、しかるべき職業の人におねがいすればよいのに、DIYで解決しなければならないことがたびたびあった。原因は、工事を必要としている係と、実際に発注する係の間のささいなすれ違いだが、それはささいであるがゆえに面と向かって質されることはなく、足りない分はこっそりカーマに走って調達するしかないのだった。
自分の手でクギを打ちこむときの、のどかさと後ろめたさが入り交じった音。トントントン。
いつか新聞ラックを新しくしたときも、長さが微妙に足りず新聞がかけられなかったのを、DとN本さんで木片を継ぎ足して伸ばしたのだった。
クギを打ちこむ向きについて、N本さんが木肌を見せながら説明してくれたがよく分からなかった。打ち損じて曲がったクギが木片に突き刺さっているのを、わたしは記念に何個かもらった。

ブラックホールは都市伝説だと思っていた、と言ったら笑われた。初めて撮影されたことが話題になったとき、S野さんが館内でやった特集展示を見て、わたしはその事実を知ったのだ。看板には出勤簿の表紙が代用されていた(厚みがあって、黒い)。養生テープで机に止めてあったそれは、期間中何度もはがれて落ちた。モーメントを制圧できていなかったのだ。貼り直されて微妙に傾いた看板を見ているだけで、異次元に飛べそうであった。
数年前に観たSF映画の中で、ブラックホールに飛びこんだ主人公が未来から娘に呼びかけるシーンがあった。ツーツートントン。なぜか、自宅の本棚の後ろがブラックホールなのだった。ツートン。
天井に金具を取りつけて大丈夫だろうか。天井の後ろがブラックホールだった場合、そこにたどり着いた人がふんづけて足を痛くしないだろうか。未来に行くことはできても、過去に戻ることはできないのよ、とアンハサウェイは言っていた。

Dが自腹で金具を都合している、と課長に話したら、その分は俺が出すよ、と言う。いくつか買ってきた金具のうち、天井には使わないでください、と書いてあるやつを、わたしはもらった。Dはからすのパンやさんのくちばしにしたらいい、と言う。そして、課長には内緒にしておきたかったのに、と言った。

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