中学時代1年1学期 母との別れ
もう結構忘れてる部分も多いですが。。
私の素性について少し書いてみます。
小学3年くらいまでは、ごく普通の家庭でした。母親が家に併設した美容室で働き、父親は、貨物船の機関長(たしかこんなだった)、10歳上の姉、8歳上の兄貴、6歳上の兄貴、と私と祖母の7人家族でした。
今思えば、母は、私が小学3年くらいの頃には休みの日、日中は家でゆっくり、居間や、部屋で、寝てることが多かったように思います。マッサージもよくしてあげていました。
小学校4年のあるとき、母の耳の後ろ、リンパ、首?あたりが腫れていると、母のお客さんに言われて、母はそのことに気づき病院へ、、、入院しないといけなくなりました。
なかなか母は私に言いづらかったのでしょう。入院の前日の夜、一緒のおふろにはいり、私の体を洗い流すときに、病院にいくことになったことを、泣きながら、私に伝えたのでした。
次の日、私が学校に行く前に、お母さんが、荷物を持って、病院へいこうとして、私と母が、抱き合って泣きじゃくり、隣のおばちゃんもその二人の姿に涙を流しました。
何度も入退院を母親は繰り返して、でも私の小学校の冬〜卒業式、中学校の入学式のころは家で療養しつつ、しっかりと私の晴れ舞台には出席して、見守ってくれました。
中学校に入ってまもなくの4月のある日、私が家に帰ると書置きがあり、また入院することになったと、その紙には書かれていました。
その入院先は、私の中学校の目と鼻の先で、学校帰りに寄れる距離なのですが、母親がそういう状態なのが、恥ずかしくて、なかなかひとりで、友達と一緒に帰るところを、病院にいくからとはいえず、母親に会うときは父親か兄弟に車で連れられてもらわないと、あおうとはしませんでした。
私が小学校終わる頃には父は、船の単身赴任だった仕事を辞め、家事に徹してくれていました。
中学入学後、私は、新しい学生生活の環境の中、意外にも勉強が楽しく、始めての中間試験で思ってたよりも、順位が良かったのです。
そうして、中学1年の一学期期末の試験が7月初めにあって、その成績を父が母に見せたようで、涙を流していたといていました。
中間よりも順位も高く、暗記ものや、英語が特に好きだったのも大きかったのかも。中学1年は本当に私にとって黄金な成績取れる時期でした。塾でも、トップ何人かが名前入りで張り出されるのですが、そこでも英語では一度1位を取り、三学期初めの応用試験?でも過去最高位を取り。
話は戻り、中学1年の7月、あるとき、そのときも、姉に病院へつれていってもらってて、姉が、怒った声で、 会いにいきたいときは連れて行ってあげるから、いいなよ?もう(あえなくなるって)わかるやろ??
わかってはいたけど、だって7月末には退院するっていいってたのもあってか、私にはあまりあせりがなかった。
私が中学1年、平成7年7月8日、オールラッキー7とめざましテレビの大塚さんがうれしそうに言ってた深夜、1時過ぎ、寝ているところを起こされた。
お母さんが危ないって!!早くっ
と姉に言われた私は急いで車に乗り込んで、母の病院へ着くと、目を思いっきりあけたまま、息苦しそうにしていた母がいた。
お母さん、来たよ!お母さん!
皆がお母さんに呼びかける!!
結構長引きそうで、まだ深夜で、私に少し休んでていいよ、と他の所でねかせてもらってると、数時間後起こされたときには、朝5時、母は、もう息をしなくなり、家族ももう何もいわず、母の手を握っていて、わたしに、
まだあったかいよ
と、母の手を私に握らせてくれました。
死亡時刻を告げると、皆、涙が一気に出てきて、まだ感情の整理がつかないまま葬儀の準備に家路にかえりました。
白血病と聞いてた気がするのですが、死因は。悪性リンパ腫です。