ひたひた、にがにが #書もつ
初めましての作家さんの、しかもエッセイを初見で読んだ。作品を知らないのに、人柄を知ろうと思ったのは、いったいなぜなのだろうか。
名前が特徴的、もちろんそれだけではない。この人は、どんな人なのだろう。
読み始めると、なんとも言えない流れに乗った。社会を俯瞰しているような、人を拒みながらも、じつと観察しているような、不思議な距離感と現在と過去を行き来する浮遊したような思考が、次々と流れてきた。
目の前にいる人、目の前にあること、”何気ない日常”とはなんだろう。
夢に迷ってタクシーを呼んだ
燃え殻
ひたひたと染み込んでくるような、気がつけば口の中に苦いものが感じられるような、幻想的で少し苦しい景色があった。なんだ、やっぱりそうか。
幼少期の暗い記憶は都合よく忘れられるものと、しつこく居座るものがある。しつこいほうに囚われると、足がすくみ前に進めない。
だからと言って、忘れたフリをして日々をやり過ごしても、何かの拍子にどろりと溢れ出る。後悔と反省と、寂しさと諦めと、どれも当たり前に誰にでも存在している過去だけれど、書いてもらうと、安心する。
初めての小説が、行きがかり上、紙媒体になったという筆者。どうにもならないことは、おそらく知識や経験を重ねるほどに増えるのだろう。無知ならば、なんでもできると思ってしまうのだから。
ひとつひとつの話が、筆者のすぐそばで起きていて、過去の記憶も鮮やかで残酷だった。その上、これまた残酷な現実には、ただ漂って生きるのではなく、チャンスを狙って、できることを繰り出していくと書いた言葉にハッとさせられた。
過去の自分を励ますことは、これからの自分を肯定することなのかもしれない。思い通りにならない世間に、自らの拳を、言葉をぶつけているという。知性にあふれた反抗だと思う。
言葉を選ばずに言えば、筆者にはあまり深い考えはなくて、刹那的に感じていることが、しっかりと記憶に残っているような節がある。
その時その時で、生きているのだとわかる。
良くも悪くも、正しいと信じていることは皆違うのだ。正しさだけで記憶に残るのではなく、楽しさや苦しさ、辛さや悲しさ、気持ちが乗っかって思い出ができているのだと思った。
誰の記憶も否定しない、しかし自らの記憶は楔のように留め置くことの強さ。おそらくふだんの生活では見えてこないだろう。
こうして筆をとって言葉を連ねてくれたからこそ、健やかとは言い難いけれど、その人なりの心の来し方のようなものが肯定される気がする。
何かを書かなきゃ!と背負って書いているのではなく、淡々と不承不承でもありつつ、選んだ言葉が読み手に流れ込んでくる感じ。読んでいる時間は、温かさとは違いそうだけれど、励まされる幸せな時間だった。