人に成る、ってことですか
月曜日は、成人の日だった。
月曜日に祝日が移動してしまってから、各自治体等における成人式という“式典の日程”という意味の祝日になってしまっているような気もするけれど、とにかく20年生きてきたことは、なかなかすごいことだと思う。
自分の時には、そんなことは微塵も感じることはなかった。
大学のテストが不安で、式典には出るけれど、一刻も早く帰りたかった。幸い、会場が徒歩10分程度のところだったので、本当にギリギリに行って、席について、終わったら帰宅していた。
会場が近くなのもあり、母校も近くにあった。そして、中学の卒業文集には「成人式のあと、学校集合!」と書いた記事もあったけれど、それはイケてる奴らの時間だし、迫るテストの日程もあると言い訳をして、帰宅したのだった。
同じ中学校から、同じ高校に通ったのは、数人で、大学はバラバラになり、成人の日だからと連絡をとることもなく、その日は終わった。
地元で開催されて、会場にはたくさんの同級生がいたはずだけれど、誰にも会っていないし、声も交わさず、あの日は一体何だったのだろうかと今でも思う。
多分、20歳の僕は今よりも、もっとモサっとしていて、ダサかった。体重も今より重かったし。スーツも初々しさが似合わないのではなく、スーツの形が“若者向け”に見えたことが嫌だった。
成人の日は、二十歳のお祭りだ、なんて大騒ぎを容認するような雰囲気もあったし、晴れ着ならば一生に一度だ。堂々とお酒を飲みたくて仕方がなかった奴らは飲めばいい。だから、明日のテストが怖い奴は勉強すればいいのだ。
世の中には、成人式で再会して、友情が復活したり、数年後に結婚したりすることがある。そんなイベントだったけれど、僕は会場にいたのに、ほんとうに誰にも会わなかった。いや、会えなかった。
何が正解なのか、それは個人の問題だけれど、成人式で集まるのは、市長が挨拶をするためだけではなかったはずだ。知り合いを探し、再会し、お互いの20歳を祝い、あの頃を懐かしむこと、束の間の“こども時代”を共有して、成長したことを確認するためのチャンスだったのだと思う。
成人、は完成形なのではない。法律上の区切りである。どこかで、自然人として法律で規定しなければならないのだ。
今年は民法が改正されて、その成人とされる年齢が引き下げられる。伝統的に脈々と続く“しきたり”ではなくて、それは誰かが決めた数字であったことに気付かされて、果たして成人とは、誰のことをいうのだろうと疑問に思うのだ。
成人の日、まったく自分のことだけしか見えていなかったあの頃の僕は、20年近く経っても実は成長していないのかも知れない。
人の親になってみて、成人の日を迎えた親の気持ちに思いを馳せるようになれた気がする、まだまだ道のりは長いけれど、僕もまだ成人していない。