市役所壁画 4 【最終話】
4.完成した壁画と30年後の発見
1993年 川崎市役所職員
第三庁舎に、猪熊さんの制作した壁画のパネルが運び込まれる日が近づいていた。壁画全体がかなり大きいため、11枚並べた列を5段に重ねた55枚のパネルで構成されている。作品は完成したと、事務局からの連絡も受けていた。
第三庁舎の建物は、すでに春に外装は完成し、その高さで周囲の建物を圧倒していた。銀色や灰色のようなメタリックな色味の、細長いフォルムは、近代的で新しさを感じさせた。ビルの上部に三角形の構造を載せたことで、まるでロケットのような雰囲気すらある。建物の完成を待つ市民たちが、たびたび見上げているのを見かける。
先日、猪熊さんが表彰されたというニュースをテレビで見た。長年の創作活動を経て、いまなお現役だということに驚く。すでに高齢の画家であるが、精力的に活動を続け、こうして川崎市にも彼の作品を迎えることができたことは、信じられない気持ちだ。
偶然目にした記事から、画家に会い、さらには作品の制作を依頼することになるなんて。庁舎に飾られた壁画を、ご本人も見たがっていると人づてに聞いていた。高齢なこともあり、なかなか移動にも懸念があるものの、ぜひ観てほしい。パネルの設置作業などを考えると、それは8月ごろになるのかもしれない。
パネルの設置予定場所は、すでに準備万端だった。設置のためのボルトが出ているが、大理石の壁はまっさらだ。やがて、色彩が躍り情熱があふれだした猪熊さんの作品が埋め尽くし、市民を職員を迎えてくれる大きな存在になるだろう。
事前の仮組みでは、サイズ違いやズレなども発生せず、ぴたりと収まるとの報告があった。
建物をあとにして、工事用の仮囲いを出て、外を歩く。5月の爽やかな空気が気持ちいい。事務所に戻ると、帰りを待っていたかのようなタイミングで電話が鳴った。
何か胸騒ぎがして、受話器を取ると、聞き覚えのない声がした。
「猪熊が、亡くなりました」
第三庁舎の落成は9月を予定していたが、猪熊さんはそれを待たずに亡くなってしまったのだった。
パネルが到着し、作業は粛々と進められたが、制作に当たった画家本人が亡くなってしまったことは、とても残念なことだった。
事前に送られてきた、仮組みした作品の写真を見てはいたものの、現物の迫力や色使いは鬼気迫るものがあった。まだまだこれからも描き続けていける、そんな勢いすら感じられるようだった。
猪熊さんは、迫り来る最期を悟っていたのだろうか。この壁画がもしかしたら、絶筆なのかもしれないと思うと、一枚一枚のパネルに猪熊さんの魂が宿っているようで、大きな壁画に守られているような気持ちになった。
1993年 画家
新しく完成した市役所に、とても大きな絵があると聞いてずっと行きたかったけれど、仕事が忙しくてなかなか出掛けられなかった。冬の寒さが厳しくなってきた年末、ようやく来ることができた。フロア3階分くらいの高さの吹き抜けの空間に、その壁画があった。
明るいロビーをさらに明るくすような、白いベースとシンプルな色の組み合わせが、それぞれのマテリアルをきちんと見せることに成功して、たくさんのものが描かれているのに、圧迫感がなかった。こんなに大きな画面なのに、賑やかさと静けさが両立していた。
その存在感、画面から聞こえてくる音に、私は圧倒されて声が出なかった。じっさい、息もしていなかったかもしれない。画業を営むものとして、大きな作品への憧れは持っていたけれど、その作品は大きすぎた。
見上げてみたり、遠くへ離れて全体を見ようとしたり、そばにあった受付の人は、とても気になっただろうけれど、そんなことは気にしていられなかった。目の前の壁画を見れば見るほど、分からなくなることばかりだった。
2024年 川崎市役所職員
7月1日、市制100周年を迎えた今日、ふだんは閑散としている第三庁舎のロビーは朝から賑わっていた。通常どおり出勤してきた職員たちは一様に驚いた表情を見せたが、中には壁画のリニューアルの公開日と知っているのか、鮮やかになって戻ってきた壁画を眺めていく者もいた。週末までかかってギリギリまで行っていた作業が終わり、壁画は元々いた場所に帰ってきた。
30年前、静かなエントランスロビーに賑やかな色彩の壁画があることに、眉を顰めてしまう人もいた。また、川崎市にゆかりがある画家はほかにもいたはずなのに、なぜこの人なのかと聞かれたこともあった。
正直、猪熊さんの名前はそれほど有名とはいえなかった。しかし、奇しくも猪熊さんの亡くなった年に完成したこの絵は、猪熊さんが遺した思いがあった。
市制記念日を前にして、週末に開催された記念イベントでは川崎の空をブルーインパルスが飛んだ。市内のあちこちに100の文字が印刷されているポスターが貼られ、昨年完成した新しい庁舎とともに、新たな歴史への期待感を高めていくような雰囲気があった。
「100周年に向けて、この壁画も修復いたしました。これからも、市民の皆様に親しんでいただけるように、アートに触れ合う場所として、また憩いのスペースとして、このロビーをご活用いただければ幸いです。」
形ばかりの式典で、市長によって壁画のリニューアルが発表された。ふだんからこの絵を眺めている人は少なくなってしまったが、こういう機会にこの作品や画家のことを少しでも知ってもらえたらと思う。
きっと猪熊さんは、ご自分の作品の一つ一つが挑戦だったはずだ。これもそうだ。川崎市という街のイメージと、市役所という仕事のイメージ、そしてそこに住まう様々な人や動物たちの命、それらを「ロボット誕生」という希望の未来に向けて、一つの画面にまとめあげたのだ。
式典が終わり、絵を眺める人が少なくなった頃、賑やかな子どもたちの声がロビーに響いた。小さな子どもたちが駆け込むように絵の前にやってきた。市制記念日には市内の公立小中学校は休校になる。
「すっげー!」「こわーい!」
にぎやかに壁画を見ては、あれは何か、これは何だと話しあっている。その輪の中には、ひときわ年齢を重ねた女性がにこやかに立っていた。学校の先生だろうか。
猪熊さんが言っていた「勇気」とは、一体なんだったのだろう。手記には、絵描きは常識と闘って新しい作品を作っていく、とあった。
公務員はむしろ常識そのものだろう。この壁画を依頼した時、当時の僕たち職員には厳しい目が向けられていたけれど、今もそれはあまり変わらない。
安定しているとか、給料がいいとか、そんな風に思われているけれど、相変わらず、やるべき仕事が多くて、疲弊している職員も多くいる。勇気が、何かに立ち向かう力だとした時に、職員は何に立ち向かっていくのだろう。
修復士の方から壁画の一部のパネルの裏に筆書きについて報告があった。
この画家にしてはとても珍しく、また人の名前のようなので、もしかしたら画家が何かを伝えようとしているのかもしれない、と続いていた。
30年前の設置のとき、なぜ気がつかなかったのだろう。
30年間もの間ここにあったけれど、外してみないと見つけられなかったというのも皮肉かもしれない。筆書きが猪熊さんのものだとしたら、何を伝えたかったのだろう。
筆書きのあったパネルについて、MIMOCAの学芸員さんからも「ぜひ公開してほしい」とあった。歯抜け状態で展示するわけにもいかないからと、レプリカを提供すると申し出があり、市が了解する形で、壁画のそばに展示された。レプリカのパネルの下には、説明書きが貼られた。
2024年 絵画教室の先生
市制記念日の今日、あの絵が修復から帰ってくると耳にして以来、楽しみで仕方なかった。1年間ほど壁からいなくなっていたから、戻ってきたと聞いて少し嬉しかった。そのことを、子どもたちにも話してしまったら、市制記念日は学校が休みだから観に行きたい、ということに。都合のつく親御さんたちも一緒に、子どもたちを引き連れて川崎までやってきた。
ふだん、平日の電車なんて乗らない子どもたちは、その混み具合に驚いたりはしゃいだりしながら、まるで遠足のような気分で川崎まで向かった。たった1枚の絵を観るだけなのに、なんだか大袈裟になってしまったな、なんて思いながらも、子どもたちにも観てほしいと思ったから、私もとても楽しみだった。
子どもたちは、昨年完成した新しい市役所の大きさに驚きの声を上げていたけれど、まずはその向かい側にある第三庁舎に入っていった。時間も遅くなってしまったので式典も終わってしまったのか、もうだいぶ人が減っているようだった。
「おっきい!」「すっげー」「こわーい」
子どもたちは口々に感想を言ってくれる。
そうそう、絵を見ると何が描いてあるんだろうって気になって、あれかなこれかなと考えてしまう。こんなに大きな絵を観たことがあるかな。修復したことで、ほこりが落ちて画面が一段と明るく見えるようになっていた。色合いも鮮やかになって、特に黄色の発色が鮮やかで印象的な絵に生まれ変わったように見えた。
大きな壁画を見上げている子どもたちのそばには、日頃付き添いで来るママたちがいた。
「こんなに大きな絵が市役所にあるんですね」「30年前に描かれた絵なんですね」「描いたのは誰だろう」
市役所に飾ってある絵、というと額縁に入った絵を想像していたのかもしれないし、ふだん美術館に行くと額に入った絵しか見られないことが多い。額やキャンバスから飛び出して、みんなの目で見られる場所にある作品にも、とても価値があるというのを知ってもらいたかったから、この作品を一緒に見られて良かった。
壁画のそばに、見慣れないパネルがあった。
壁画のパネルの一枚を複製して展示されていた。裏面に筆書き…
「幸子」は、もしかしたら、私の名前かもしれない…。
記憶の彼方にあったが、不意に上野駅で見た絵のことが思い出された。「その絵を見られないのよ」と困った顔をしていた母の顔と一緒に。そうだ、あの壁画の作者も猪熊弦一郎だったじゃないか。父は…私の父は、あの絵を描いた画家の助手だったのではなかったか。
幼い頃、母が父の仕事場に行ったことがあると話してくれたことがあった。近くで作業していると知って、思わず駆けつけてしまったのだと笑っていた。赤ちゃんって、なぜかいろんな人に会わせたくなるのよ、なんて言っていた。
亡くなった父の絵は、ずっとアトリエに飾ってあった。自分の描きたい絵と雰囲気が似ているように感じたこともあった。優しさを感じる丁寧な絵を、いつしか私も描きたいと思っていたのではなかったか。
筆書きを見つめながら、私は時間を忘れて考え込んでしまった。
気がつけば、涙が堪えられなくなっていた。父も、そして猪熊先生も、ずっと私のことを案じてくれていたのかと思うと、申し訳なさでいっぱいになる。
「あー、せんせー、泣いてるよー!」「だいじょうぶ?せんせー」
さっきまで壁画を見ながら、色々なことを言っていた子どもたちが、一斉にこちらを見ていた。おばあちゃんが泣くなんて、みっともないところを見られてしまって恥ずかしい。
「幸子せんせー、どうしたのー?」「ここのお名前、先生と一緒だねー」
子どもたちの呼ぶ声が聞こえていた。
ー 了 ー
この物語は、フィクションです。
猪熊弦一郎による壁画「ロボット誕生」は川崎市役所第三庁舎に実在します。
川崎市は、2024年7月1日に市制100周年を迎えました。
参考図書
私の履歴書 猪熊弦一郎
(編集:丸亀市猪熊弦一郎現代美術館/発行:公益財団法人ミモカ美術振興財団)2003年出版
猪熊弦一郎(図録)
(発行:丸亀市猪熊弦一郎現代美術館/公益財団法人ミモカ美術振興財団)2018年出版
最後まで読んでいただき、ありがとうございました! サポートは、僕だけでなく家族で喜びます!