何度も行ったから
菊竹清訓、きくたけきよのり、を知っているだろうか。建築家である。
毎週月曜日には旅の記録を書いている。旅、と言うほどにイベント感はないけれど、幼い僕の日常を支えてくれた場所のことを書きたい。
名前は知らなくても、彼の建築の中で、もっとも多くの人がその姿を知っているかもしれないのは、都内にある特徴的な構造をした博物館ではないだろうか。
江戸東京博物館
現在は耐震工事などの整備改修期間となっており、開館はしていない。小学生の時に、見学に行ったことがあった。その外観を初めて見たとき、下に道路か川が流れているのかと思った。
建築のことはあまりわからないけれど、菊竹の同年代に黒川紀章(国立新美術館などが有名)がおり、メタボリズム(建築と都市の新陳代謝、循環更新システムによる建築の創造を図ろうとする考え方)の流れを汲んでいるらしい。
建築家の作品の中には、博物館や美術館などもあり、その多くの建物が現存している。
僕が小学生になる頃、近所の大きな公園に大きな建物が建てられた。背が高いわけではないけれど、大きくて光っていた。金属で覆われたような屋根が太陽の光を浴びて鈍く光っていたのだ。
曲線の多いふんわりとしたフォルムながら、メタリックな表面と強い黒色の柱たち。不思議な形だった。
いったい、これはなんだろう。
市民ミュージアム
その建物につけられた名前だった。
幼い僕は、なかなか言えなかった。ムージアム、ミュージャム・・。家族でも行ったし、友達とも行った。ビデオライブラリーで映画を観たり、第二土曜日には無料になる展示スペースに遊びに行ったり。駐輪スペースの脇にある、人工の小川で過ごしたこともあった。
その建物が、菊竹によるデザインだと知ったのは、それから30年あまり経って、ミュージアムが役目を途絶されてしまった頃のことだ。
令和元年台風、その威力は凄まじく、東京と神奈川の境を流れる多摩川が越水するのではないかと危惧された。
さいわい、越水や決壊はなかったけれど、もともと低い土地に建てられていたミュージアムは建物を囲むように水が流れ込み、地下の収蔵庫には大量の水が流入した。
何万点にも及ぶ作品が水に浸かり、たちまちカビによって腐食した。作品の修復のために全国から専門家が集まって作業に当たったものの、4年経った今でも、全ての作品まで手がつけられていないという。
台風の1ヶ月ほど前、僕と子はそのミュージアムに行った。カラスのパン屋さんなどでお馴染みの、かこさとし展が開かれていたのである。
展示は原画だけでなく、子どもがパン屋さんになってごっこ遊びができるコーナーもあった。絵本の中の子ガラスになって、周囲の大人にパンを配っていたのは、当時3歳の我が子であった。
駅から遠いとか、企画がマニアックすぎて興味が湧かない等、ミュージアムに関するアンケートでは痛々しいコメントもあったけれど、僕はミュージアムが好きだった。
先日、Twitterにこんな投稿があり、思わずその場で購入を申し込んでしまった。商品説明の写真たちは、かつて訪れたミュージアムで見た景色そのものだった。
場所柄、人がたくさんいることはなく、いつでも落ち着いて過ごせたことも印象的だったし、幼い頃には当時3階のフロアの隅にあったカフェで、オレンジジュースを飲んだことを鮮明に覚えている。ついぞ叶わなかったのは、併設されていたレストランでの食事だった。
取り壊しが決まり、あと数年すればその建物は無くなってしまう。どんな建物だったのか、自分の記憶だけでは心許ないし、当時の思い出を残したいと思った時、あのツイートに出会った。無くなるのは分かっているから、その時に悲しくならないよう、絵葉書を買ったのだ。
なんとなく、何度も一緒に行った父親にもあげたくて、2セット買った。渡した時、どんなふうに言うだろうか。身近な遊び場がなくなってしまうこと、それは誰にでも経験のあることかも知れない。でも、絵葉書にしてくれるなんて・・貴重だと思う。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました! サポートは、僕だけでなく家族で喜びます!