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wantが湧いてくるのは「生きたい」のが本音だから。

地震や事故など、不穏な感じで始まった2024年。
「次に進むか、とどまるか。」
最近、この問いを何度も自問自答している。
時々考えすぎて、上着のフードを被ったり、布団にもぐったりして
光や音から遮断しないとパニックになりそうになる。

今の環境に頗る合わないと感じるなら
行動するしかないのに、
その行動するまでの思考さえもままらない。

確実性や安心にすがりたい最近の私は
答えのない問いに正解を見出そうとする思考回路に陥り
エネルギーを消耗しているからだ。

仕事ではもうすぐ繁忙期が始まるというのに、
乗り越えられるのだろうか。

「分からないことがあれば聞いて」
と言ってもらえて同僚が答えて(応えて)くれる環境はあっても
その「質問」さえも最近は上手く言葉にできない。

私の強みは、既存の業務や案件の問題提起をし、改善提案をすること
だと思え始めていたのに
最近はそこまで頭が回らない。以前よりも業務量は落ち着いているのに、だ。

こうやって久しぶりに言語化してみたけれど
やはり今の私は負のループの中にいる。
「あ、もう生きるの面倒くさいや」って思うこともあるし、
1人でランチに行く途中、ボーっと歩いてて信号を見てなくて、
車のクラクションで自分が轢かれそうになっていたことに気づき
「え、いっそのこと」って思ってしまったこともあった。

そういうことを考えてしまった自分がいても
「~になりたい、~してみたい」
「私の理想の学校教育は○○で、こういう手段でアプローチできるかも?」
とかって、まだまだwantは浮かんでくる。

それはつまり、
私がまだまだ「生きたい」と思っているから。

そして、そのwantは「学校教育」という大きなテーマから
色々と枝葉のように分かれている。

私が社会人になってあえて自分に負荷をかける選択をしたのは
「何者にでもなれるような力をつける」ため。

ただ、それって目標が壮大だから
何を目指して頑張るかが見えづらくなると最近気が付いた。
今こうやって自問自答の日々なのは
そろそろ「何者」を定義し、それを目指したい時期が来たからなのか?

社会における「正解」を見つけようと思うと
心はしんどくなるし、ますます自分が分からなくなる。

だから、自分における「本音」を見つけようと思うと
自己分析よりももっと楽しい「自己探究」が始まって
自分の意義や本質を見極められるようになるんじゃないかな。