楽しい、をじぶんに許してあげる
体を壊す前、ぼくは、楽しい、という感覚がわからなかった。
正確に言えば、これが楽しい、のかな、と自信を持って感じているものを認めようとしなかった。
楽しいが、わからないなんてことが、あるのか、と言う方もいらっしゃるかもしれない。
けれど、本当に、わからなかった。
だから、ともだちが、楽しそうにしていることが、うらやましかったし、ひがみもあった。
ともだちは、楽しいを体現したようなひとだ。
じぶんにとって、何が楽しくて、何が楽しくないのか。
そのシンプルな判断が、とても早い。
楽しく生きるには、どうするかを、感覚的に知っている、そんな風に、ぼくは、見ていた。
そのともだちが、眩し過ぎて、一時期、会えなかった。
会いたくなかった。
楽しくないじぶんを、認めたくなくて、けれど、会えば、それを認めてしまう。
認めたら、つまんないひとだと、じぶんで思ってしまう、と思い込んでいた。
きっと、この頃は、ハートの声が聞こえなかったのだと、思う。
聞こえていたけれど、聞こえていないフリをしていたのかもしれない。
それでも、じぶんには、やりたいことをやっているんだ、と強く思って走っていた。
一番大切な、感覚を、見失って。
体を壊して、じぶんと向き合わざるを得なくなった時、はじめて、ハートの声が聞こえた気がした。
楽しい、という感覚が、じぶんの中にあることを、ハートは教えてくれた。
それが、ゲームをすることだった。
夢中になって、ゲームをした。
久しぶりだった。
じぶんにプラスにならないと、思って、ゲームをいつの間にか、遠ざけていた。
だから、楽しそうに、ゲームで遊んでいるともだちに、ひがんでいたんだと、思う。
ゲームをやってもいい、ことを、じぶんに許した。
楽しいを、じぶんに許したのだ。
それからnoteにハマった。
また、書くことで表現することをしたのだ。
嬉しかったし、こんなに楽しいんだ、と思った。
いま、ぼくは、楽しいことが、頭ではなく、感覚でわかるようになった。
じかんは、かかったかもしれない。
けれど、大切な感覚を、思い出すことができた。
これからも、楽しい、の感覚を、じぶんに許して、いこう、と思う。
あなたも、じぶんに、楽しいを許してみては、どうだろうか。
少しだけでも、じぶんに楽しいじかんを、つくってあげる。
どんなに、ちいさな、楽しみでもいい。
そのちいさな、楽しみは、あなたにとって、大切な感覚を思い出させてくれる。
楽しいは、ほかの、楽しいを、連れてくる。連鎖する。
楽しんでもいい。
そう、じぶんに、許すことで、日々が、また違った景色に、なるのだと、思う。
ここまで、あなたの貴重なじかんをつかって読んでくれて、ありがとうございます。