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映画「主戦場」感想 ~自尊心の問題は収集がつかない~


※ネタバレがありますので未見の方はご注意下さい。

映画「主戦場」は、従軍慰安婦問題をめぐる議論のポイントを、登場人物たちのインタビューをもとに整理しつつ、その裏に隠された思想を伝えてくれる、有意義かつスリリングな映画だった。

ラスボス「加瀬英明氏」

なんといっても、この映画を見て誰もが気になるのは、後半にラスボスの如く登場する、日本会議の中心人物のひとり、「加瀬英明氏」だ。

インタビューでの彼の発言はいきなりぶっとんでいる。
まず「日本が戦争に勝ったから黒人が公民権を得た」という、前提も結果も意味不明の珍言が飛び出す。

日本が戦争に勝った…勝ったのか?

先の大戦じゃなくて日清日露の話だろうか? 言い間違いだろうか? あるいは彼の独自の解釈の果てに出た、独特の言い回しなのかもしれない。それはわからない。

加藤氏へのインタビューは続く。
インタビュアーは、吉見義明氏という慰安婦問題の専門家に対する、加藤氏の意見を尋ねる。
どれだけの嫌悪や反駁が返ってくるのかと思いきや、加藤氏は「誰ですかそれ?」とおっしゃる。
「私は他人の本は読まないからわかりません。不勉強なので」と悪びれない。
なるほど。彼は議論などしない。自説あるのみ。人の意見を聞かないから自説が負けることはない。バッターボックスに立たないのだから三振もない。

そんな反知性主義を豪語する彼の背後には、百科事典がズラッと並んでいる。なんとも皮肉だ。
さらに鑑賞後に調べたところ、何を隠そうこのお方、ブリタニカ百科事典の初代編集長というから二度驚いた!
他人の本は読まない百科事典の編集長なんて、ありうるのか…。
彼への興味は尽きない。

彼を揶揄してばかりはいられない

と、ここまで散々揶揄するような書き方をしたが、実は、映画を見ている間は加藤氏をあまり笑えなかった。

彼の言動には正直驚いたが、この人を嘲笑したら、その対象を笑った瞬間に、彼を嘲笑う側の党派に立たされてしまう気がしたからだ。
どちらの立場にも立ちたくない観客としての私は、笑うことで立場の選択を迫られ、まさに議論の主戦場に立たされてしまう気がして、うまく笑えなかった。

日砂恵ケネディさんについて

この映画で私が見ていて、もっとも信頼できる存在は、日砂恵ケネディさんという方だ。

彼女はかつて保守論壇に積極的に寄稿し、第二の櫻井よしことも目されたが、故あってナショナリストとしての活動を停止したという。

彼女は言う。

「ナショナリストは日本が弾圧されることで、自分の名誉を傷つけられたと感じる。だから自尊心を守るために、日本を擁護する」

この言葉こそが、問題の本質を言い表している。

全ては自尊心の問題なのだ。

大江健三郎「セヴンティーン」

大江健三郎の小説「セヴンティーン」は普通の少年が右翼少年になっていく様を感情移入たっぷりに描いた作品だ。
彼は、日本=天皇という存在に自分を仮託し、日本=天皇=国家の栄光は自分の名誉、日本=天皇への恥辱は自分への侮辱、というように捉えた。

日本=天皇=国家を、自らの「存在理由」としたのである。

だから、この議論には終わりがない。

国家を心の支えにする個人にとって、慰安婦問題において実際に強制があったとか報酬がどうとかの全ての細部は、自分を肯定し、相手を否定するための道具でしかなくなる。(逆も然り)

そこには、慰安婦の被害の訴えを、「自分の名誉を傷つけられた」と感じる人びとと、慰安婦の被害の訴えこそ「自分らの正しさを担保する証拠だ」と感じる人びとしかいない。断絶された二極に分かれて立つしかないのだ。

本当の加害者、本当の被害者は立ち去り、それを道具に自己肯定に励む人らが残って、不毛な議論を続けるのである。

この映画を見るにつけ、つくづく思うのは、自己肯定の気持ちと政治思想は分離すべき、ということだ。


慰安婦問題を暴くことは、誰かの人格否定ではない。
国家への侮辱は誰かへの侮辱ではなく、国家の栄光は誰かヘの勲章でもない。

そのように考えないことには、この争いは終らない。
加藤氏を笑っていても対立は進むばかりだ。
互いに否定すべき相手を求め合っているような、今の状況ではお互いの妥協点など見いだせるはずもない。


まとまらないが、最近の政治的ドキュメンタリーの中で、もっとも有意義な作品のひとつであることは、間違いないだろう。

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