謙虚な天才は「努力」を努力だと認知しないし、呼吸をするように「実力」を育てる。
最近自分より年下で、すごい才能だなぁと感じる人に良く出会う。
例えば星 銀乃丈くん。なんとこれ本名なのだ。銀ちゃんは元々「水町涼」というペンネームでニコニコを中心に「弾いてみた」系の動画で人気のクリエイターだった。ツイッターに掲載する動画は何万RTに上ることもしばしばだった。
そんな彼らはいわゆる天才肌なのだが、彼ら自身は自分が天才肌であるとは微塵も感じていない。というか自分は凡人だとさえ思っている節がある。総じて謙虚なのだ。
天才肌にも自信家タイプか謙虚タイプがいるが、僕が今回題材にするのは後者。
彼らの自分に対する謙虚さ。言うなれば程よい「自信のなさ」はどこから来るものなのか考えてみた。
では逆に「自信」とはどうすれば身につくものか?
それは「成功体験」と「それを実現するための努力の認知」であると考える。
人は成功体験を経験するだけでは確実な自信を得ることはできない。
より強固に「自信」を実感するためにはその成功を「成功させた要因」について深く理解している必要がある。
その成功がなぜ成功したのかを語れる人。
そしてその要因を自分の努力や実力だと認知する人が自信家である。
と考えている。
しかし、天然天才肌の子達は圧倒的成功体験を収めても
「努力していないのに」「実力じゃない」「運がよかった」と認知する。
そのため、それらが自信につながることがない。
だがしかし、現実に成功を収めていて、それらがすべて「運が良かったから」等といった要因だけで構成されているはずがない。
その成功体験の裏には確実な「本人の実力」があり、その実力を構成する「要因」が存在している。
ただ当の本人はその要因を「努力」とは認知していない。
「努力している感覚」がそもそもないのだ。
しかし、先ほども書いたようにどんな物事であれ
「実力」にはそれを構成する「要因」が必ず存在する。
多くの人がその要因を「努力」であると思っているが、決してそんなことはない。
例えば、僕はツイッターで人のツイートを見ると、
「この改行の仕方がいいな」
「単語がテンポよく読めて気持ちいいな」
「全体としてみると文字がやさしいな」
と色々なことを考えてしまう。これは”無意識”に行われる。
しかし、これは明確な「情報生成」なのだ。
既存のコンテンツから自分で情報を生成している。
僕らはツイッターに限らず世の中のありとあらゆるモノから無意識に情報をインプットし続けている。
しかし、この「情報生成方法」を他人にノウハウとして提供すると彼らはそれを”意識的”にこの方法を試みるようになる。
人は”意識的”に何かをするとそれを「努力」であると認知する。
つまり謙虚な天才タイプと凡人の違いはそこにある。
天才肌の彼らは無意識の中で凡人の何倍もの情報を生成しそれらをインプットしている。ただそれが無意識の中で行われるので、それを「努力」とは呼ばないだけの話なのだ。
実力を構成する要因を「努力」と呼ぶか呼ばないか。たったそれだけの違いなのだ。
なので僕が声を大にして言いたいのは
天才は何もせずに天才なわけではない。無意識の中やることやってる。それも人一倍に。
凡人は天才を「天才は何もしなくてもなんでもできていいよな」と揶揄するがそんなことは決してない。
無意識は強い。意識的な物事にはキャパシティ(限界値)が存在するが、無意識にはそれがない。
天才は呼吸をするように「実力」を蓄えていく。
そんな彼らと戦うためには人一倍努力しろ。勝てないかもしれないけど、可能な限り、努力しろ。習慣にしろ。意識的な努力を呼吸をするようにやれ。そこまでいけばきっと肩を並べられる・・・。
かもね。
ではまた。
わたらいももすけでした。
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