歩きながら食べると何故美味しいのか
歩きながら食べるのが好きだ。
いや、まあ座って食べるのも好きだから、要は食べることが好きなだけだが、それでも歩きながら食べることは特別な気がする。
お祭りに出ている屋台のわくわくを思い起こすからだろうか。飲食店に掲げられた「食べ歩きできます」の文字に反応してしまうのは私だけではないはずだ。
(ちなみに、一緒に「飲み歩きできます」なんてのもあれば一発だ。)
今日は、100円ローソンの焼き芋を買って歩きながら食べた。100円ローソンは粋なさつま芋フェアをしていて、入り口でさつま芋を焼いている。入り口で焼くなんてずるいと思う。入った瞬間に鼻をくすぐる甘いにおいに瞬殺されてしまう。
オーブンや石油ストーブがない一人暮らし物件だと、美味しい焼き芋は意外とハードルが高い。実家はさつまいもを育てていて、この時期は毎日のように石油ストーブで焼いた芋を食べていたので、そんな私のホームシック感にも的確に刺してくる。
さらにご丁寧に焼き芋と一緒に、バターかアイスクリームもどうですか、なんてお勧めしてくる。熱々焼き芋の熱で溶けるバターとアイスクリームの映像がまざまざと脳内に浮かぶ。糖質と脂肪分の組み合わせに人類が勝てる訳がない。むむむ、お主、分かっておるなあ。
私は潔く観念した。
一番美味しいそうな子を選んで、紙袋に入れて、その重みとぬくもりに満足する。
お会計をしたときレシートをもらわなかったら、後から店員さんが「焼き芋のクーポンついてるんで次回もぜひ」とわざわざ店の外まで追いかけてくれた。店員さんの優しさに感動してお礼を言うと「お気をつけて」と爽やかな笑顔。100円ローソンは企画だけでなくて店員さんも粋だった。しびれる。
焼き芋は温かいうちに食べるのに限る。
家までの徒歩20分の間に冷めてしまったら焼き芋への冒涜だ。焼き芋だけじゃない、100円ローソンとあの店員さんへの冒涜だ。なんてひとりで頷いて、人目もはばからず歩きながら食べることにした。
一口食べてやっぱり正解、私の判断は正しかったと、またひとりで頷いた。
人目をはばかってちゃあ、幸せになんかなれない。
ひとり暮らしをして、ひとりで行動することが多くなると、こんな風にどうも独りよがりになっていけない。
と、自分を戒めながらも、今後も焼き芋を食べ歩きできる自由を享受し続けたいと切に願う。
食べ歩きが特別なのは、歩きながら食べるなんて「行儀が悪い」「はしたない」と禁じられて育ったことも一つの理由だろう。そういうところはお行儀のいい家庭で育った私は、実家を離れてしばらく経ってもなお、むかし家で禁じられていたことをするときの背徳感に萌えてしまう。
「私は自由だー!」と叫びたくなるくらいだ。
(…勿論、人前で叫びはしないが。歩きながら食べることに人目をはばからない私も、それくらいの分別はつく。心の中で目一杯叫ぶに留めておいた。)
思い返すとすこーし窮屈な部分もあった子ども時代だが(毎日8時就寝だったり、TVを見せてもらえなかったりした)、私も子育てをする未来を想像すると、何かを禁ずることが私を守るためだったのだと理解できる。母親は串を喉につまらせることを案じて、綿あめもリンゴ飴も絶対に座って食べさせた。
そういえば、さつま芋も喉につまりやすい。
母がキッチンで料理をしながら、よく芋を喉に詰まらせていた。背中を叩いてくれ、という仕草をしながら食卓で宿題をしている私のところに来た場面は数回ではなかった。
いつも家中をパタパタと動いている母は、座って食べることもできないくらい私たち家族の世話で忙しかったのだろう。母のお陰で私はじっくりと宿題をすることができ、伸び伸びと勉強させてもらえた。
喉に詰まらせないよう、しっかり噛み締めて焼き芋を味わいながら、これからは私が案ずる番だ、母にゆっくり座らせてあげようと心に誓った。
*あとがき*
あいにく焼き芋の写真がなかったので、代わりの写真をあげました。袴姿で食事をしたくないけれど、タンパク質を摂取したくて100ローで買った魚肉ソーセージを歩きながら食べている私です。あまりにも映えないのでアレですが、母が撮ってくれたので。そういえばこの頃は筋トレを頑張ってたな。