短編小説。 ノンフィクション。
夏の終わり。僕は何の変哲もない日常を送っている。テレビでは、ある映画で、主演女優賞を取ったというニュースが流れる。僕は電源をきり、出かける用意をする。僕は休日、レンタルビデオ屋に来た。旧作は1本100円で借りることが可能で、新作は少し高い。期限さえ過ぎなければ、お手頃である。何本か借りていく。僕は久しぶりにあの作品が見たくなってそれを借りた。DVDを再生する。少し前に流行った映画の広告と、おことわりについて、退屈なものが流れた後、そのタイトルが浮かび上がる。そのタイトルは、
『君が自殺した。 ~名もなき彼女の真実とその後~』
映画が始まる。
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・モノローグ(登場人物が心情や考えなどを、1人だらだらと観客が退屈になるまで話し続けること)
これは小説でも映画でもない。君が自殺した。君は有名ではなかったがモデルをやっていて界隈では少し有名だった。だからなのか。今、通っている高校に多くの報道が来るようになった。ニュースでは特に流れないが、ネットニュースでは少し話題を呼んだ。そのうち多くの人が学校に出入りするようになった。僕は、物珍しさに目が眩んだマスメディアを、恨んだ。ワイドショーを、報道を恨んだ。彼女の笑顔や特徴や性格なんて誰にもわかるわけないのだ。あんなのただの偽物の正義感だ。
やがて、とある情報が流れた。彼女の死を映画にする。彼女の死を無駄にはしないと事務所や、メディアが勝手に決めたらしい。映画は現実の目とは違い、カメラが介入する。見たいものだけを映し、見たくないものを除外するカメラという兵器は、現実の彼女に対して、嘘をつく。そんな美談でもない。美しくもない。しかし、無名な1生徒の心の声が届くはずもなく、着々と、テレビや新聞で情報が公開されていく。その情報は有無を言わさず世界へと、広がっていく。
自殺した少女の物語、未来への教訓となる、これから、いじめが、減っていく、この素晴らしいノンフィクションがきっかけで、まだ名前もないその少女が、自殺し、
世界が、変わった。
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・シーン(ある場所、ある場面の切り離された部分)
彼女の役はあまりテレビを見ない僕でも知っている若い役者さんがやるようだ。
エキストラの高校生は僕たちだ。順番にセリフが分け与えられる。皮肉にも、彼女を自殺に追いやったきっかけになる女グループのメンバーに、本当に彼女をいじめていた女子たちが割り当てられた。僕は、同じクラスのモブ。教室の授業のシーンで、手をあげる何人かの生徒のうち、当てられない人を演じる。僕は、映画でも現実と同じような感じにやればよかった。誰も僕が君を好きだなんて思わないし、知らないだろう。
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・過去(時間の中でもう過ぎ去ってしまった部分、すでに終わった出来事のこと)
君は生前、僕とほんの少しだけ話した。映画のシーンにはならないような、誰も知らない、一日経ったら忘れてしまうような内容だったと思う。僕も内容は覚えていない。だけど、君と話せたことが幸福で、僕はその日の憂鬱も眠気も一気に解消された。好きな人との会話には、こんな効用がある。君は僕の知らない世界を知っていて、大衆と同じように影を潜めて生活していた僕とは違い、友達も多かった。だけど君はその時に、とてもつらい状況であることは、僕は知る由もなかった。
夏の終わり。夏休みが明けて、学校に生徒が集まり、退屈な学年主任と校長先生と進路指導室の話を聞く。3年生じゃない僕らにとってはいまいち現実味がわかない。教室に戻り、担任がたるんでるぞ、と少し声を張り、怒っているという状態を表現している。
放課後。そのころ流行りの、AKB48のEveryday、カチューシャが、放課後流れていた。どこか切なく、悲しげだった。僕は学校から帰る。学校から帰っている時、一台の救急車と、僕は、すれ違っていた。
きっと何かが違えば、君は生きていて、打ちどころが違うとか、花壇の柔い土なんかがあれば、君は死んでいなかったと思う。それだけでなく、君が付き合う友達とか、君がこの学校を選ばなかったとか、そもそも僕が君を知らなければとか。そんなたらればを考えているうちにまた朝が来て、僕は学校に向かう。学校では形式的に君が死んだこと。君は遺書を書いていたこと。その遺書には、両親への感謝と謝罪しか書かれておらず、クラスに対しては良くも悪くも、なにも書いてなかったことが告げられた。このことから、クラスではなく、家庭に焦点が置かれ、現在も調査は進んでいるらしい。
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・シーン
では、なぜ先ほど彼女を自殺に追いやったとされる人たちが登場したのかというと、脚本だからである。ノンフィクションは全てがノンフィクションではなく、所々、観衆のため、製作のために書き換えられることがあるらしい。これは、フィクションだと製作チームは思っているだろうが、意図せず、ノンフィクションになってしまっている。そんな皮肉がくだらなく、笑った。
撮影が始まった。僕たちは学校のシーンにしか登場しないが、僕たちが存在しない君の家庭のシーンや、君が口で言っていた地元や、お店のシーンも撮影しているらしい。撮影現場でさえ、僕は蚊帳の外だ。今日、君の役をやる女優さんと会った。きっと君の写真を見てメイクしたのだろう。遠くから見れば、君と錯覚してしまう。その女優を知っているクラスの男子は、君が死んだことを忘れるようにその女優に握手を求め、写真を撮っていた。同じ制服を着たその女優は、20歳を超えた人で、君とは顔も名前も違う。そんな女優のことを、君の名前で呼び、君として扱い、君のように終わりを迎える。僕にとってこの映画が完成することは、君が2回死ぬことと同じである。僕は耐えられなかった。
撮影が進み、休憩時間。教室でキャスト皆がご飯を食べる。君を演じている女優さんはもちろん一人で。そんな光景が前にもあったなって思う。こんなふとした瞬間にも君がちらついて仕方ない。ふと、目が合い、目を背ける。君ではなかった。角度によっては君に見えても君ではない。取り繕い、似せて、寄せても君ではない。そんなことを想い、この現実が受け入れられなかった。
フィクションで書かれたリアルないじめのシーンは、すぐにOKが出た。そりゃそうだ。過去を繰り返せばいいのだから。その女たちは、何も悪びれることなく淡々とやってのけた。そのとき、得体のしれない感情が動いて、僕は無意識に泣いていたらしい。こんな僕だ。泣くことくらいしかできないのだ。人間1人の力は、こんなものだ。
そして、その時が来る。
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・ラストシーン(演劇や映画での最後の場面。)
自殺した君が最後に笑ったとされる学校祭のシーン。
君に教えてあげたい。君のことは有名な女優が演じている。その女優の演技はとても上手いと思うが、君が持っている魅力は君にしかない。だから、僕は君を演じている人の顔はあれ以来、未だに見てない。だけど。その時の状況を再現して、シーンが始まると、君がそこにいた。本当に君がいた。君が僕に笑いかける。世界が2人だけになるみたいに。君と目が合って、僕は泣いた。
泣き声でシーンを止めてしまった。
エキストラで代わりがいるので僕は追い出されてしまった。代わりがいるという事実。ここで僕が止め続けても意味がないことに気づいた僕は学校を後にする。学校から離れていく。君が遠くなる。きっと今頃、君は笑顔を見せていて、その笑顔の裏にあるものに、僕は二度と気づけない。
そのあと撮影が終わり、撮影陣は打ち上げをするらしい。
僕はその日、家に帰り、君がいた瞬間を思い出した。君と最後に会った日がどんどん遠くなっていく。
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・エピローグ(演劇や映画で最後に観衆に向かって述べるだらだらとした言葉。)
そのノンフィクションの映画が公開された。
映画は興行収入第1位を取った。だが、そのような映画は世に何個も産み出されており、いつかはレンタルDVD店で旧作の1本100円で売られるようになる。
僕は彼女を、思い出し、これから彼女を忘れていくであろう大衆のことを思い、苦しくなった。これで彼女の死は本当のことになってしまう。これがノンフィクションというものなのだろう。
今日も旧作のその映画をレンタルして、改めて見る。
彼女が1回目に死んだ時のことを私は忘れてしまった。そんな自分が許せなかった。
後日、僕の死体が学校から見つかることになる。いわゆる後追い自殺である。きっとこんな僕のことだから、映画にも小説にもならない。僕は、君の真似をしてみたかった。きっとこんな僕のことを書くとするならば、とても控えめに書いているだろう。
暇があれば、レンタルビデオ屋か古本屋にでも行って探してみてほしい。旧作のように、一巻100円で大量に所蔵されてる本のように、僕が佇んでいるかもしれないから。
終わり。
あとがき。
みなさんは1リットルの涙という作品をご存知だろうか。その映画を見た瞬間、これは美談でもドキュメントでもないと私は思う。
辛い苦しい過去の繰り返しであると私は感じた。同情するつもりはない。だが、それを作ったという事実は常に残り、その映画を見た人の中でその中の主人公は死ぬ。2回見れば2回死ぬ。そんなふうに思った。
人が死んだ後も影響力を残すのはすごいことだと思うし、そんな人ばかりではなく忘れられてしまう人もいる。
人が本当に死ぬ時は忘れられる時と言うが、常に時代に残りまた取り残される映画という媒体に残り続けることは、果たして幸福なのだろうか。私はそんなことを考え続け、この作品を描いた。
この作品はもちろんフィクションである。
あとがきを読まない方にはノンフィクションだと思ってもらっても構わない。