【小説】 痣
背中を椿の花でいっぱいにしてほしい、そう女は言った。
亡くなった父からこの店を継ぎ、私の代になってからずいぶん経つが、珍しい注文だった。
「椿だけですか?」
「駄目でしょうか?刺青は初めてでよくわからくて…」
「いえ、大丈夫ですよ。花だけというお客様はあまりいらっしゃらないので」
「そうなんですね。どうしても椿を入れてほしくて…」
そう言うと、女は身の上話をはじめた。いつもなら客の刺青を入れる理由や事情なんてまったく関心はなないのだが、女の話には少し興味をもった。
「私、もう長くないんです。お医者さまにそう言われました。最後を穏やかに過ごせる為の場所を提案されていますが、色々考えてしまったんです。私はこのまま、今の私のままでいなくななってしまうんだなって。これまでの自分を振り返ったら、私は何も残せてないって…」
誰かの記憶には残るなんて言葉は、死を目前にした女には届く事はないだろう。届くとしても、そんな言葉をかけるつもりはない。
「私の両親は既に亡くなっていて、一人っ子なので兄弟もいません。心を許せる友人もいません。結婚もしていないので天涯孤独なんです。本当に誰もいないんです。でも、何かを残したいと思ってしまったんです。残すにはどうしたらいいのか色々考えたら、持ってるモノを全部手放して身軽になったら何かわかるかなって思って、実家も全て手放しました」
「では、今はアパートかどこかに住まわれているのですか?」
「いえ、身寄りもない私に部屋は借りられません。こんな体ですから仕事も辞めましたし、死んでく女に部屋を貸すなんてしないでしょ?今はホテルなどを転々としています」
「それでは身体も休まらないのではないですか」
「別にいいんです。もう、先がありませんから…。何か残したいって思っていても時間もないですし、なんの取り柄もない私なんて何も残せるはずもなく、一人旅をして思い知ったんです。私には何もできないって。足掻くことすらできない自分が惨めで、何をしてるんだろうと思ったら実家を手放した事を後悔しました。家というよりも庭にある椿を手放した事を…」
「椿に何か思い入れでもあるんですか?」
「実家は両親が結婚した時に購入した家で、中古物件だったんですが、椿が好きな母は庭にある椿が気に入ってその家に決めたそうです。母は椿を大切に育ててました。毎年毎年椿の花が咲く度に子供のようにはしゃいで楽しそうでした。私はそんな母の姿を見るのが好きで…。綺麗でした。椿は本当に…綺麗でした。そんな事を忘れていたなんて。そんな大切な事を…母が残したモノを簡単に手放すなんて」
女はうつむき、肩を震わせた。
「ごめんなさい。泣くつもりなんてなかったんですが…すごく後悔してて、取り返しのつかない事をしたって思ったら、頭の中がぐちゃぐちゃになって、もう何も考えられなくなったんです。そんな時、この街を当てもなく歩いていたらこの店の看板が目に入りました。店の入り口に般若の面と桜の絵が飾ってあったので…あれは、あなたが描かれたのですか?」
「いえ、あれは父の最後の作品の下絵です」
「そうだったんですか…。その絵が背中に彫られたものだと形でわかったので、もしかしたら母の椿を私の背中に残せるのではないかと思い、こちらを伺いました」
「それで椿だけの刺青を」
「はい。ただ、ちょっと気がかりがあるんです」
「どんな事でしょうか」
「私の背中には生まれつき痣があるんです」
「痣…ですか」
「少し大きいので、椿が描けるのか心配で」
「ちょっと見せてもらえますか?」
私は女を奥の作業部屋へ案内した。
「これなんですが…」
女は躊躇なく服をまくり上げた。背中の右辺りには、確かに痣があった。
「どうでしょうか」
「そうですね…」
痣は藍色だった。女の背中に落ちた花びらのように見えた。その痣に、私はなぜだか目を奪われてしまった。
「あの、どうしましたか?」
女の問いには答えず、背中の痣を見ていた。手を伸ばし痣を指でなぞった。
「あっ…」
「失礼、凹凸があるか確認しています」
「凹凸なんてないと思うんですが…」
勿論、凹凸なんてない。痣に触れたかったのだ。肌が乾燥しているのか痣は少しざらついていた。私は何度も何度もなぞった。女はその度に身をよじったが、構わず続けた。すると、痣を中心に次々と赤い椿の花が現れた。幻覚…?次第に女の背中は椿の花でいっぱいになった。
「これは…」
目の前の光景に頭がクラクラした。
「あの、駄目でしょうか?」
女の声に我に返った瞬間、背中の椿は消えた。
「いえ…大丈夫ですよ」
なんだったんだ今のは…
「よかった。じゃあ、椿を描けるんですね」
「はい。ただ、痣を残して椿を描きたいのですが」
「痣を?」
「背中の痣は丁度、花びらの形をしています。一輪の椿だけ1枚の花びらが藍色で、他はすべて赤色にするのはどうでしょうか」
「痣が花びらの形…?自分では気がつきませんでした。そうですか…花びらに…」
女は右手の親指の爪を噛み、何か考え込むように視線を落とした。
「あ…ごめんなさい。考え事をすると爪を噛む癖があるんです。子供みたいですよね。そうですね…藍色の花びら…。では、それでお願いします」
「ありがとうございます。早速、下絵を描きますね。その間、ここでお待ちになりますか?」
「はい。できれば絵を描く所を見たいのですが」
「ええ、是非。気になる所があればおっしゃって下さい」
先程の光景が頭に残っているうちに絵を仕上げたかった。集中する為に店を閉め、目の前の女の存在も忘れ、絵に没頭した。
数時間ほどで絵は仕上がった。
「素敵…。これが私の背中に?」
「はい。こちらでよろしいでしょうか?」
「本当に素敵です。これでお願いします」
「早速、取りかかりましょう。お時間は大丈夫ですか?今夜のホテルなど決まっているのですか」
「泊まる所はまだ決まってないんです。ネットカフェにでもって考えていますが…」
「でしたら家に泊まって下さい。私の両親もとっくに亡くなっていて私1人なんです。2階の部屋も空いてますし」
「そんな…悪いです」
「遠慮なさらずに。ウチは機械を使わず手彫りなので時間がかかります。頻回に通う事になりますので、体力がいると思います。こんな事を言うのは大変失礼ですが、時間も限られてますし途中で中断されたら私も心残りになります。家にいていただいたほうが安心です」
「失礼だなんて思いません。確かに時間は限られてますからね…。わかりました。甘えさせていただいきます」
「ありがとうございます。正直言いますと、私も何か残したいと思っているのかもしれません。表にあった父の作品のように自分の作品を。あなたの背中の痣を見た瞬間から、そんな作品がか描けるのではないかと…。なので、あなたをここに引き止めてしまいました」
「私の痣で?こんな痣が役に立てるなら嬉しいです。本当にありがとうございます」
私はただ、私の絵が途中で描けなくなるのが我慢ならなかった。たとえ、女が動かなくなっても完成させるつもりだ。
その日から一切の依頼を断った。
女の背中に下絵を転写する。
カチカチと、針が皮膚に入る乾いた音が室内に響く。
徐々に花の輪郭が見えてくる。
針の角度で墨の入る量が変わるので慎重に動かす。
気の遠くなる作業だが、不思議と疲れは感じなかった。女の背中に浮かぶ椿の花を早く見たかった。
はじめこそ女は痛みに耐えている様子だったが、この頃は慣れた様子でウトウトしている時があった。
食事やトイレ以外、ほとんど休憩もせずに彫り続けた。女も時間がない事がわかっているのか、何も言わなかった。
一週間ほどで絵は完成した。
あの時、女の背中で見た椿の花がそこにあった。
寝息を立てている女に声をかける。
「え…?もう、できたんですか」
「はい。ゆっくり立ち上がってこちらへ」
女に鏡を持たせ、姿見の前へ立たせた。
「すごい…!本物の椿みたい」
「赤みがあり落ち着くのに時間はかかりますが、いかがでしょう?」
「ありがとうございます。こんなに綺麗に…。母の椿を見ているみたいです」
女は背中にある椿を愛おしそうに見つめた。
「失礼ですが、この後どうされるんですか?またホテルを転々とされるおつもりですか。それとも病院に?」
「いえ、もう病院に行くつもりもありません。そうですね…動けるまで何処かで…」
「刺青の後はケアをしなければなりません。背中なので一人では難しいと思います。よろしければこのまま家に住みませんか?正確には、あなたのご実家で」
「え?私の実家ですか?どういう…」
「あなたの背中に椿を彫っている時から考えてたんですが、私はこれ以上の作品はこれから先、もう描けないと思います。その椿が私の最後の作品になります。作品の最後を見届けたいのですが駄目でしょうか」
「え…でも実家はもう手放したのでないですし、いくら作品の為でも会ったばかりの女の最後を…。正気ですか?」
「正気ではないのかもしれません。取り引きではないですが、ご実家は私が買い取らせていただきます。その代わり私に最後の作品を見届けさせて下さい」
「やっぱりあなたは正気じゃないです…」
「最後をご実家で過ごしたくはないですか?椿を見ながら」
「なんでそんな事言うんですか…ずるいです…」
正直、自分でもわからない。なぜこんなに執着するのか。女の痣を見てから正気ではなくなってきている。
「もうこの店もこのまま閉めようと思っています。古い建物ですから土地代くらいしかならないですが、なんとかなるでしょう。中途半端な気持ちではありません。どうでしょうか」
「そこまで…。考えさせて欲しいですが、私には時間がありません。椿をまた見れるなら願ってもない事です。夢を見てるみたいで頭の中が混乱していますが…よろしくお願いします」
女は深々と頭を下げた。
「頭を上げて下さい。こちらこそよろしくお願いします」
手続きには時間がかかったが、なんとか女の実家を買い取り、引っ越しもできた。
女は実家に引っ越してから暫くは庭の手入れを楽しそうにしていた。爪も噛まなくなった。
しかし身体は蝕んでゆき、徐々に体は動かなくなっていった。
女のベッドを椿がよく見える所に置いた。
女は何も言わず、椿の花が咲くのをじっと待っていた。
体調のいい時は体を拭いてやった。背中は慎重に。ざらついた藍色の花びらを優しく指でなぞる。
時々、「何か残したい」と言うようになった。
庭の椿が蕾をつける。
女の爪が伸びていたので切り揃えた。右手の親指の爪は歪な形をしたまま伸びていた。
赤い花が咲いた。
椿の花がよく見えるように、体の向きを代えてやった。
女は目を細め、遠くを見ている。
目尻には、流れる事のない涙があった。
椿の蕾がすべて開いた頃、女は私に名前を呼んで欲しいと言った。
私は女の耳元で名前を呼んだ。
女は優しい顔で、そのまま静かに呼吸を止めた。
この時、私は初めて女の顔を見た気がした。
女が死んでから数日が経つ。
庭の椿は女の死を悼むかのように、他の土とは違う、濃い色をした土の上にたくさんの花首を落とした。
壁に掛けてある絵に手を伸ばす。
ざらついた藍色の花びらを、何度も指でなぞった。